井伊直弼言行録1

昔時の海外貿易と鎖国令

鎮西の諸港は比較的早く欧洲の感化を享く

史を按ずるに、欧州人の我邦に渡来せしは、天文十一年葡萄牙ポルトガル人三名、我が沿岸に漂着せしを以て嚆矢こうしとするものの如く、爾後、葡萄牙商船は大隅おおすみ豊後ぶんご等に屡々渡来し自国の産物を我が産物とを交易せるが為め、鎮西の諸港は比較的早く欧洲の感化を享けたり。その葡国ほこくより伝えられたる鳥銃の術の如きは、当時争闘止むことなき、諸豪領主の垂涎惜かざりしところ、従って彼等欧人は到る処に殊遇を受け、後ジヱスヰト教会1の牧師ザヴイエー2の来りてその宗義を宣弘せんこうするや、鎮西の諸豪また多くこれを庇護す、これ所謂切支丹きりしたん宗渡来の初めなり。天正十年九州の豪族、大友、有馬、大村の諸氏は、使節を羅馬ローマに特派して法王に信書を贈りしに徴するも以て切支丹宗の勢力の如何に我邦に盛んなりしやを察するに足らん。

切支丹の勢力

かくして切支丹宗の勢力は、漸次西陲せいすいの地より京師けいしに進み、終に織田信長の信仰を得るに至る。而も当時の宣教師は、その目的とするところ神の福音を伝うる以外に、政治実業と密接の関係を有し、先ず宗教を以て民人を懐柔し、貿易の利を以て領主の心を収め、斯くして占めたる地歩を利用し、武力を以てその国を手中に収めんとする、所謂侵略的の色彩を帯びたる危険性のものたりしや疑いを容れず。

信長西教弘通の道を開く

信長初めて宣教師に接するや、宇内うだい切支丹宗の寺院乏しきの理を糺す。牧師答うるに仏教徒の畢竟これを喜ばず、陰に敵意を挟んで其布教を妨げつつある事実を具申す。信長即ち令して京都に南蛮寺を建て、安土に大成寺を築き、特に綸旨を請うて西教弘通せいきょうぐづうの道を開く。蓋し信長の意は、当時叡山の僧徒の暴慢なる本願寺門徒の放縦なる、自己の意を損する多きを以て、西教を宣通してその威力を利し以て仏徒を圧せんとは企てしなり。

されば九州地方に於ける西教の勢力は益々大に、その宣教師等は機を見て漸く鋒鋩ほうぼうを現し、肥前平戸港に在っては仏教徒と故意に闘争を開き、その仏寺を焼き仏像を破壊し、市中を騒擾せしむるのみならず領主龍造寺りゅうぞうじ氏怒ってこれを追えば、乃ち貿易に托して飽くまで領主を苦しめんと、隣領大村氏を説きてその領内に港を開かせ、龍造寺領の商人をこの地に誘致して、以て平戸に赴くことなからしむ。龍造寺氏遂に屈して、再び宣教師を招き平戸港を開くに至る。大村氏は初め横瀬浦を貿易場となせしが、後港を福田浦に移し、終に長崎港を開く、当時大村氏は龍造寺氏の攻むるところとなり、軍費に缺くるところあり、為めに長崎附近数ヶ村の年貢を質として、宣教師等より銀百貫文を借り入る。領民年貢を宣教師の許に持参すれば、彼等は之を饗応し、その貧しきものには金銀米穀を與え、盛んに衆愚の心を収む。茲に於てか長崎附近各村の庶民は、宣教師を主の如くに敬い、その教義を信じ改宗するもの頻出し、長崎附近一円はあたかも南蛮寺領の如き観あり。而も宣教師等は進んで更に領主に迫り、全く之を寺領たらしめんとするの勢を示す。而して領主若しこれをゆるさざらんか我等は永遠に長崎港を放棄すべしと恐喝し、遂に長崎附近をその手中に収むるに至る。


リスボン美術館蔵 作者不詳 南蛮屏風部分画像

南蛮寺

戦国時代から江戸時代初期までの期間に建てられた南蛮風の教会堂の通称。「南蛮寺」「南蛮堂」、またデウス(ゼウス)から「だいうす寺」「だいうす堂」などと呼ばれた。
江戸時代に入り禁教政策が厳しくなり、既存の教会堂も破壊されたため、南蛮寺の建物の一切は現存していない。

宣教師等の暴横

信長の後継者たる秀吉も、最初に於ては西教の庇護者たりしが、天正十五年島津征討を終りて凱旋の途次、博多にて宣教師等の使節に接するに及び、その倨傲無禮きょごうぶれいなるを見て、窃かにその真相を探らしむるに、彼等の悪行は神社仏閣を毀損し我国特有の風俗習慣を破壊する如き到底看過すべからざるものあるを以て、秀吉は断乎として五ヶ條の布令を発し、長崎を没収して公領となし、二十日以内に宣教師等の国内を退去すべきを厳達す。宣教師等命を奉ぜず躊躇するところありしかば、秀吉憤怒して南蛮寺を破却し、西教徒を捕らえて厳に之を罰しぬ。

秀吉は夙に貿易の利を知れり

然れども秀吉は夙に貿易の利を知り、又兼ねて海外侵略の大志を抱きしかば、五ヶ條の布令中にも、商売の出入は自由たるべしと記せり。家康もまた秀吉と同じく西教は禁止せしも貿易の利はこれを知りしを以て、秀吉よりより以上貿易を盛んならしめんが為め、津島のそう氏をして、専らその事に当たらしむ。

家康海外の渡航を奨励す

関ヶ原戦後、和蘭オランダ船堺浦に来たりしかば、家康其船長及び英人の水路師を江戸に召して、具に海外の事情を聴取し、益々貿易を盛んならしめんとし、秀吉の時代、御朱印船と稱し、海外渡航の大船を以て、京都、堺、長崎等の豪商に貿易の特権を許可しありしを、家康更にその数を増し、我邦人の海外渡航を奨励せしかば、南清、南洋諸島及び印度地方との貿易は漸次盛大となり、遂に新西班牙スペイン国に使節を派して、貿易の事を開かしむるに至る。


ポルトガル船の図
交易のため日本に到着し積み荷を下ろすポルトガル人(16 – 17世紀ごろの作品)

厳に西教弘通の途を断つ

和蘭船の渡来は葡国商人に大なる打撃を加えたり。秀吉南蛮寺を破却して西教の弘通を禁ぜしと雖も、その禁漸く緩むや、彼等は再び暗々裡に之が宣伝に力めしが、新教を奉信する和蘭人等は、家康に説くに天主教3宣教師等の異心あるを以てし、家康もまた西教徒が宗門に偏執して君命を蔑如するところあるを悪み、慶長十八年令して天主教の宣教師を阿媽港あまこう及び馬尼剌マニラに放逐せしめ、諸侯に命じて封内の教会堂を毀ち、西教を信ずるものを改宗せしめ、厳に西教弘通の途を断ちたりと雖も貿易の利は決して等閑にせず、西教禁令と御朱印船の符券とが交互に頻発せらるるの奇観を呈しぬ。

大阪の役起こるや、西教を奉信して迫害を被れる徒、多く大阪城に入る。されば西教と徳川幕府とは、いよいよ両立し難きものとなれり。二代秀忠の代となるや、貿易の事は家康時代に異ならざるも西教の禁は愈々厳を加え、而もその禁を犯すもの頗る多く、宣教師等は姿を変じ御朱印船に潜伏して来たるもの、屡々しばしば当路の発見するところとなり、幕府の警戒は厳なる上にも厳ならんとせり。越えて家光の初年に於ても、また貿易の自由は依然これを認めしも、西教の禁は層一層厳を加え、その手段として我邦に来る船舶の主脳に、一々その乗客の精細なる名簿を提出せしめ、一命を賭してそのいつわりなきを證するの令を発しぬ。

支那人に扮して宣教の事に従う

されど布教に熱心なる彼等宣教師は、尚お幕府の眼をぬすみて潜入するものあり寛永九年、羅馬法王より、日本の弘教事業を再興すべき命を受けたる一葡萄牙宣教師は、同志九名と共に支那人に扮して、我邦に入り宣教の事に従う。而も僅か一年にして幕府の発見するところとなり。江戸に於て糾問の後、火刑に処せられぬ。かかる事再三ありしかば、家光は此処に於て断乎たる禁令を発して、日本人の海外渡航を禁じ、御朱印船の特権を奪い、諸港を閉じ、貿易は長崎一港に限るものとし、葡萄牙及び西班牙の商人は、全部長崎港内の出島に移して、監視を厳にしたり。

島原の乱、寛永の鎖国令

然るに越えて二年、島原に乱あり、これ主として西教徒のなす処。ここに至って貿易の利と宗教の禁と両立するの難事たること明白となり、寛永十六年、再び令して葡萄牙人等を長崎より追い、和蘭人をして代り移らしむ。茲に於てか、八十猶予年間の海外通商は全く杜絶せられ、爾後百五十猶予年、また欧人の来りて我国に通商を求むるものあるなし。これを世に寛永の鎖国令、或は鎖港令と稱す。

鎖港令の発せられしより以後凡そ百五十有余年、此の間、また海外諸国の我邦に来るものなし。而も英仏露の諸国競うて極東に注目するに及び、我邦は意外の強敵来たりて北門をねらうの警報を耳にす。そは他なし、露国の沿海州を侵し、進んで我蝦夷地に迫りしことこれなり。


嶋原陣図御屏風(戦闘図)
「嶋原陣図御屏風(戦闘図)」朝倉市指定文化財
天保8(1837)年 斎藤秋圃 画

露の使節長崎に来る

文化元年九月六日、露の使節レザノフは、我が長崎に来たり、その領土我邦に隣接せるの故を以て、修好の議を締結せんことを請い、応接半裁余にして、我の拒絶に会い、空しく帰国したり。而も爾後、屡々露人の蝦夷地を襲うあり、時に我が守兵と戦いを交え、時に住民の物資を奪い去る等のこと敢えて罕なりとせず、我邦為めに北陲ほくすいの守備を厳にし、諸侯に命じて万一に備うるところあらしめしが、畢竟これ一部識者間に高唱せられつつ攘夷説の生む所なり。文化五年八月十五日、英艦フヱートン号突如長崎に入る4。これ其敵国たる和蘭商船を捕獲せんとして、我が近海を捜索せしも得るところなかりしため、その長崎港に遁入せしものとなし追跡し来たりしなり。而も長崎港に入るに際し、和蘭国旗を掲げ、之を迎えし蘭人を捕えて、詰問すると共に、端艇はしごを放ちて港内を捜索す。長崎奉行松平図書頭ずしょのかみ探知して大いに怒り、沿岸防備の佐賀藩に命じて撃攘せしめんとす。然るに佐賀藩兵はその期に先ち、沿岸を撤退してあらず、只僅かなる番兵の残留せるのみ、その隊長もまた帰国せし後なりしを以てまた如何ともすること能わず、英艦の為すが儘に任せぬ。奉行松平図書頭は、その職責を尽す能わざるの責を幕府に謝し、遂に自刃して果てたりしかば、幕府はまた佐賀藩を厳責して偏にその罪を謝せしめき。

凡そ史上の事実はその事柄の始めより重大なるものあり、またその事柄はさまで重大ならざるも、その影響するところ大にして、史上に将筆大書とくひつたいしょせらるべきものあり。露使の長崎に来たりしは前者に属し、英艦の長崎に入りしは後者に属せんか。此事ありてより佐賀藩主鍋島閑叟なべしまかんそうの大憤慨を醸し、我国民上下の体外思想に大なる影響を及ぼすに至れり。

  1. イエズス会:カトリック教会の男子修道会。会の略称はS.J.であり、中国や古くの日本では「イエス」の漢訳が耶穌であることから耶穌会(やそかい)やジェズイット (Jesuit) 教団とも呼ばれた。(wiki ↩︎
  2. フランシスコ・ザビエル:(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年 – 1552年)は、スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。(wiki ↩︎
  3. 天主教:カトリック教会。ローマ教皇を最高指導者として全世界に13億人以上の信徒を有する、キリスト教最大の教派。(wiki ↩︎
  4. フェートン号事件:文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。(wiki ↩︎

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