室町・江戸

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毛利敬親

長州藩を率いて起つ 天保九年五月、初夏の太陽が燦々と降りそそぐ沿道に、長州萩の城下の人々は、今日初めて入国する新藩主毛利大膳大夫だいぜんたいふ敬親の行列を出迎えていた。養祖父齊熙なりひろ、父齊元なりもと、養父齊廣なりとおの三人を、一年程の間...
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久坂玄瑞

久坂玄瑞は天保十一年(1840)長門国萩平に生れた。通武または義助とも称した。家は長州候の医官で、父は良迪といい、玄瑞はその次男である。彼は非常に沈着な性格の所有者で、しかも常に誠実を旨としていたのでいつも同志の尊敬をうけていた。
日本英雄伝

高杉晋作

非妥協の一生 維新の志士中で最も性格の鮮やかな詩人的風格を具えた人物を求めるならば、誰しも先ず高杉晋作たかすぎしんさくに指を屈するであろう。西郷南洲さいごうなんしゅうが超弩級の戦闘艦であるとすれば、高杉晋作は正に潜水艦である。前者には山のよ...
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青木木米

三十を過ぎてから陶に入るのは不可能だと云われている。それは指先がもう固くなっているからである。しかるに八十八は三十にして陶を志し、しかも古今を通じて彼ほど短日月の間に陶工として名を挙げた者はなかった。
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徳川家光

元和元年九月、竹千代は十二歳で元服し、従二位大納言に叙任して、家光と名乗った。同時に、家康は謹厚な酒井雅楽頭忠世、明敏な土井大炊頭利勝、剛勇な青山伯耆守忠俊を傅とし、各々その長所を傾けて玉成するようにと命じた。
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支倉常長

慶長十八年に船出して実に八年を経て帰朝した常長。不幸にして時の利を得なかったとは云え、政宗の遠謀熟慮と常長の豪放大胆は百代の後、猶燦然と輝いている。
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武士道と日本民族 第一章

武士道は実に我が大日本帝国国民の精神である。或はこれを大和心と曰わんも可、日本精神と曰わんも可、又或はこれを国民精神と曰わんも亦決して妨げない。
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青木昆陽

時は吉宗将軍のころ。享保の大飢饉は甚大な被害をもたらしたが、薩摩国では薩摩芋によって飢えから免れていたと知った昆陽は、薩摩芋栽培に奮闘。その後吉宗に頼み込み、儒学に傾倒していく。
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ペルリ提督日本遠征記 第一編 日本遠征艦隊の巻

アメリカ合衆国がペリー監修の下で日記や公文書等に基づいて編纂。黒船に乗って渡来したペリーは、どんな思いを胸に日本を目指したのか。彼は日本で何を見て何を感じたのか。当時の日本を知る貴重な資料の一つ。
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井伊直弼言行録2、3

井伊氏の始祖、徳川家との関わり……「一国、一家、一身を挙げて徳川氏の犠牲たれ」ちょう美しき遺訓は、実に井伊氏歴世を通じて些の渝りなき一大生命。国賊とまで呼ばれた直弼、その胸中にあったのはただ徳川のためにという思いだったのかもしれない。