武士道と日本民族 第一章

花見朔己 著『武士道と日本民族』,南光書院,昭和18.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1039557 (参照 2024-03-15)

武士道は実に我が大日本帝国国民の精神である。或はこれを大和心と曰わんも可、日本精神と曰わんも可、又或はこれを国民精神と曰わんも亦決して妨げない。尚武の国大日本帝国は古来未だ嘗て外国の侮を受けたことのないことは、実にこの一大精神の存するが故である。されば古来外国と事あるや、毎に武士道精神は大に発揮せられて、挙国一致これに当り、以て皇国を富獄の安きに置いたことは国史の昭々として示すところである。而し古来外国と事あるや、期せずして武士道研究の声を聞くことの多いのも、亦因縁なくんばならずと思うのである。

顧みれば今や我が帝国は支那事変以来、ここに全五周年を経て既に大東亜戦争に入り、陸に海に連戦連勝、大東亜興亜圏の建設に邁進しつつあることは更めて言うまでもない。従って武士道研究の盛なる、今日の如き未だ嘗て見ざるところであるが、而しも武士道の研究は容易なことではなく、今日尚おその研究途上にありというも、決して自ら侮るところの言ではあるまい。少なくとも私の見るところを以てすれば、今日まで公にせられた武士道研究に於いて、未だ満足するに足るものは見当たらない。これ私が自ら進んでこの小著を公にし、以て世の批評を仰ぎ、相共に進まんことを欲する所以である。既にこの種の研究の公にせられたものが汗牛充棟も啻ならざる如く、論じて悉さざるものなき如くであるが、この小著が決して屋上屋を架するが如きものでないことを確信するものである。新たなる発足の下に、武士道研究の第一歩を踏みしめることは、私の最も欣快とするところである。

 昭和十七年明治節吉殿

著者識す

第一章 序説

武士道研究の態度

国家の非常時に当って、国論期せずして武士道論に触れる論講の多くなったことは、何としても我が国現時の現象として何人もこれを認めないことを得ないであろう。併しながらこれは我が国民性研究の一端として、前線にあって赫々たる武動を立てつつある勇士諸君の功績を称賛すると共に、銃後にある吾々国民がその由って来る所以を考慮し、遠きを窮めて将来に伝えるところあらしめんとするもので、その研究論講は決して徒爾ならざるものあることを確信するものである。併し一と口に武士道論と称しても、その由来淵源を極めて、その発達の過程を考察し、以て我が国体との連絡関係を見窮めんとすることは、実は容易ではない。されば近時武士道に関する著書の現れたもの決して少なくないのであるが、私は更に私の見るところを率直に筆にして、茲に本書を公にする所以である。或は屋上更に屋を架するの諺を受けんとするの虞ないではないが、その観点を新たにした点は、更にこの研究に向って少なくとも一歩を進め得たものと信じて疑わざるものである。

武士道の名称

さて武士道という名称であるが、これは古くは決して言われなかった名称で極めて新しい称である。先ず武士道という名詞の起った淵源とも見られる武士の道という称えは、古いところでは今川記の第三に「今川了俊同名仲秋へ制詞の條々」というがあって、その解説の始めに、

弓馬合戦嗜事、武士之道めづらしからず候間、專一に可執行の事第一也、

とあるものが最初であろう。この制詞の條々というは了俊の壁書として有名なものであって、応永十九年二月の制定といわれるものである。而かも尚おこの武士の道というは、弓馬合戦嗜事とあるのによると、後世に謂うところの武士道とは異り、弓馬の道というように解せられ、専ら弓馬を主とせる武道そのものをいうやに解せられる。降って甲陽軍鑑品第六に「信玄公御時代諸大将之事」という條があって、

一御歳増次第に、先へ書之、若此反故落散、他国の人見之、我等の仏尊しと思やうに書ならは、武士の道にて有ましきなり、弓矢の儀は唯敵みかた共に賁なく、ありやうに申をくこそ武道なれ、賁は女人、或は商人の法也、一事をかざれば、萬事の實皆僞也、天鑑無私、

とあるが、この武士の道というも亦弓馬の道というように解せられて、道徳的の意味が多分に加味せられた武士道とはやや異なるように思われる。後章に詳述する如く、後世武士道の発祥とも見られる鎌倉時代は言うまでもなく、室町時代にあっても皆弓馬の道と称したもので、元弘三年四月足利尊氏が丹波篠村八幡宮で旗揚げをした時の願文にも、

高氏爲神之苗裔、爲氏之家督、於弓馬之道、誰人不優異哉、(篠村八幡宮文書)

とあるのも亦同様の意味と解せられる。元和元年七月徳川家康が武家諸法度を制定して、その第一條に、

文武弓馬之道専可相嗜

とあるのも亦然りと思われる。

それ故一般的に言えば、当時は未だ武士道という言葉は余り使われなかったようである。武功雑記に伊達政宗の話として記せるものに、政宗は予て豊臣秀次と親しかったので秀次生害の事あるや、政宗は秀吉の嫌疑を受け、その弁明の為に大阪に上る途中河内牧方で石田・富田・施薬院の三人の使に合うた。三人の者が秀吉の命を奉じて訊問に来た旨を話すと、政宗の曰うには、太閤の如き発明な人でも目がねが違って秀次に天下を譲ろうとしたのであるから、自分如き片目の者が秀次を見損なったのは是非もない、太閤が秀次に天下を譲るということになったればこそ、自分も秀次に取入ったのであるが、若しそれが悪いというならば、自分の頸をはねられんことこそ寧ろ本望であると言切った。すると施薬院はそうは申し上げられぬ、何とかうまい言い方もあろうというや、政宗は施薬院をにらみ、

其方ハ病人ノ事コソ功者ニテアラン、武士道ノ事ハシルマジ、アリノ儘ニ申上ヨ、

と言うたとある。これは政宗としては聊か信じ難い言い分であるが、茲に武士道とあるのは、単に弓馬の道というだけではなくて、やや後世の道徳的意味を含んだもののようにかんがえられるのであるが、本書はその多くの内容をより見て、寛永以後の編纂と思われるから、武士道という称の起ったのも、大凡その頃以後と考えられる。一体武士道に称する武士という言葉は後世に用いられるところで、その初は「武者むさ」又は「つわもの」と称したもので、蔵人所に属する瀧口の武士の如きも瀧口武者といい、院の御所の警衛に当る武士の詰所をも武者所と称したのである。建武中興の新政治に現れた武者所というも、畢竟この意味から起ったものであろう。もっとも武士という言葉は夙く続日本紀以下の国史にも屡々見えるところであるが、それは六衛府の近衛・近衛の類を称したもので、平安時代末期頃に興起した新興階級の武士とは違ったものである。従って斯る武士の当然の職とする兵事をば古くは主として兵の道といわれ、後ち専ら弓馬の道と称せられたのであるが、その意味は専ら文字通り旧話の技を磨くというような意味に用いられて、道徳的の義は余り含まれていなかったようである。

然るにそれが鎌倉時代になると、我が国社会の情勢も前代と大いに変って一般に教育的傾向を帯びるようになり、従って弓馬の道にも多分に道徳的批判が加えられ、頼朝の如きは苟も徳義に悖るが如き行為あるに於いては、断じて許すところなかったことは、後章説くところに依って明らかである。この頃から弓馬の道は専ら武士の守るべき道徳の意味が多分に加えられて、独り弓馬の道以外に守るべき道徳律を意味するようになり、江戸時代に至ると、山鹿素行以下の儒者もこれに関する研究を公にするものあるに至り、専ら士道として通用するように至った。これ素行の大著山鹿語類に士道篇ある所以である。もっとも素行も武士道と称したことが決してないわけではなく、前記の各篇にも武士道と記してあるところがニ三あるのであるが、大抵士道として記されている。嘗て明治三十八年日露戦争の闌なる際、井上哲次郎博士と有馬政祐氏の共編になれる武士道叢書に収められたもの五十五篇の中、士道・士説と冠する著は三篇であるが、武士道とあるは一もないことによってわかるであろう。寛政二年八月若年寄京極備前守高久が風雨の際登城に当り、乗物の中に刀を忘れ、登城の後気付き、誠に士道相立たずとて出仕もせず、閉居していたので再三将軍のお尋ねがあったということである。(続徳川実紀寛政三年正月十三日條)。この時幕府より備前守への申渡の全文が蜀山人の半日閑話巻四に載せてあるが、それにも士道とある。寛政の頃も武士道とは云わず専ら士道と称していたことが判るであろう。世に加藤清正が家中に示した七箇條の掟書というものがあって、その一箇條に、

一學文之事可精、兵書を読、忠孝の心懸専用たるべし(中略)、武士の家に生れてより、太刀刀をとって死る道本意なり、常々武士道の吟味をせざれば、いさぎよき死は仕にくきものに候間、能々心を武事に刻む事、肝要に候事、(続撰清正記)

とあるを引いて、当時既に武士道と称したという一証左とする例で、これまで公にせられた武士道論には殆どきまって引用せられる程に有名なものであるが、この掟書というものは全然偽撰で、聊かも據りどころのないものであることは、私の既に論証したところである。(歴史地理第七七巻拙稿、加藤清正の家中掟書七箇條というものについて)。

斯る次第で武士という言葉は極めて新しいもので、古く見ても江戸時代以前には遡らないようであるから、本書に於いても士道と認める方がよいとは考えたのであるが、士道というも武士道というも畢竟その本質に何等変るところがないのであるから、今私は今日の通称語たる武士道という称を取ることにした。

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