毛利敬親

長州藩を率いて起つ

天保九年五月、初夏の太陽が燦々と降りそそぐ沿道に、長州萩の城下の人々は、今日初めて入国する新藩主毛利大膳大夫だいぜんたいふ敬親の行列を出迎えていた。養祖父齊熙なりひろ、父齊元なりもと、養父齊廣なりとおの三人を、一年程の間に相ついで失い、僅か十八歳の身を以て、長州藩主の重責に去年就いたばかりの敬親であった。

『出迎え御苦労。』若い藩主の声はゆったりと落着いて、温か味があった。藩の上下の人々は頼母しげに馬上の敬親を仰ぎ見た。絢爛華麗を慣とする初の入国に、木綿紋付の倹素な衣服に菅笠姿、その水々しい若葉に映える頬には、真摯な決意が据わっていた。

内憂外患共に至り、海内の風雲が混沌として不気味に搖れ動く大きな変動期に処して、この長州藩の中心に坐るべき身となった若者は、如何に行動しなければならぬか。――敬親の胸中には、藩祖元就以来、毛利氏を中軸として四方に展開する歴史的、地理的、政治的、経済的な、あらゆる事情経緯が往来していた。毛利家は、代々、幕府よりも朝廷に親近していた家柄である。室町末期に於て、朝廷が式微の極にあらせられた時、種々献品して尽すところの多かったのは元就である。以後、それが毛利家の慣例となり、毎年歳末歳首に於ける献納が後代に継続され、ために、諸侯と朝廷との直接関係を厳禁した幕府でさえも、毛利氏のみは特例とするほどの有様だった。

又長州藩は、藩主の夫人は徳川氏の縁続きから入れることはあっても、養子は必ず支藩から迎えた。従って血統的にも幕府との関係が薄かった。加うるに、地理的にも遠く隔たり、且つ外様大名であるために幕府に優遇を受けず、更に、今一つ重要視すべきは次の事実である。慶長五年、あの関ヶ原の役に際し、当時の藩主毛利輝元は、家康の非を鳴らして豊臣家の爲めに決起し、一敗地に塗れるや、酷くも封を削られて、八ヶ国から一時に二ヶ国に減封された。従って毛利氏は財政的に非常に困窮した。家来達も或いは召放し、或いは減俸せねばならなかった。が、それでも追ッつかぬので、輝元から十代目の重就が、鋭意改革を図り、田畑の改廃を行って、そこから打ち出した六万石を以て別途貯蓄と運転増殖に用い、所謂『撫育金』なる特別経済政策を案出して、漸く財政建て直しに息を吐いたほどだった。だから、長州藩の伝統は、財政窮乏に関しても、徳川氏に不快の念を抱いていた。

斯うした要因を内に持つ長州藩が、外界の動きに応じて、薩摩、土佐等と共に、倒幕維新の急先鋒として活躍したことは、寧ろ当然のことであった。そして此の革新機に当り、よく時代の行くべき方向を察知して、全藩を率いて起ち、錚々の志士達をも充分に活躍させ得たのは、英名剛毅の藩主敬親であった。誠に彼の事蹟は、長州藩勤王史であり、又、王政維新史の重要な一頁をなすものである。

顕著なる地蹟

敬親は文政二年(1819)二月十五日江戸麻布邸に生れた。従四位上左近衛権少将さこんえごんしょうしょう齊元の第二子で、母は側室原田氏、幼名を猷之進ゆうのしん教明のりあきといった。天保八年四月、封を襲ぎ、翌年入国と共に、非常な決意を以て藩政の改革に着手した、彼が、先ず取りかかったのは財政の整理であった。長州藩の財政は、齊煕、齊元、齊廣の三代のうちに、非常に行き詰まっていた。敬親は、齊煕の手元役をしていた村田清風や、香川、木原、山田等の才幹ある新人材を登用して、その衝に当たらせ、上下の意思の疎通を計る目的を以て、藩財政の実際を、領内一般に広く告示して知らせた。そして、藩の収支借債等を明らかにさせ、一般人士の理解のもとに、着々、藩財政の挽回を計った。

天保十年、彼は倹素の令を発して士風の矯正を図り、修史の事を督し、翌十一年には、評定所を設けて聴訟の刷新を計り、更に、旧弊を改め、諸臣の直言を求めるために令して言った。

『政治の得失、事務の利害、苟も言わんと欲する者は、職の上下に関せず、事の大小を問わず、忌諱の心を捨てて宜しく之を告ぐべし。』

彼は又、文武の奨励に特に意を用い、十二年には江戸邸内に学舎を設けて有備館と称え、藩校明倫館を拡張し、儒者安積艮斎あさかこんさい志賀小太郎しがこたろう等を招聘し、有為の青年を他国に遊学させた。洋学にも早くから留意して藩医青木周弼あおきしゅうひつ等にオランダの医書、機械、薬物等を伝えさせたり、蘭学者坪井信道つぼいのぶみちを招いて外国文化を普及させ、または外国書の翻訳をさせたりした。更に天保十四年には高島秋帆たかしましゅうはんの様式教練方に基いて、萩城外に三万五千の兵を徴発し、大操練を催して士気を鼓舞した。

こうして文武の奨励と同時に、士民の貧窮振りにも目をとめた彼は、まず、文武に精励させるべき先決条件として経済的不安の除去を計った。即ち案出したのが三十七ヶ年賦で以て、公私の負債を皆済させるべき方法であった。これに依って藩士達の救われたことは大方でなかった。

弘化元年には、彼は領内の阿武、大津、豊浦の海岸に砲台を築き、外難に備え、同四年には西洋砲術を採用して兵備の改新を図った。又、民生に心を用いる事の深かった彼は、種痘を領内に奨励し、私学校令を布いて士庶の教育に努め、インチキ宗教が民を誤ることを恐れては、千余の淫祠を破壊した。

嘉永二年六月、連日の霖雨のために水害が甚だしく、領民が飢餓に迫った時、彼は藩倉を開き、又、他国に穀粟を求めて、必死の救助に努めた。

また藩政革新に鋭意であった彼は、藩士の階級打破なども、どしどしやってのけた、腕のある人物であれば、従来の格式なんかは無視して抜擢するに躊躇しなかった。五百石以上の士分と定められていた寺社奉行の職に、二百石の飯田小右衛門いいだこえもんを引っぱり上げて腕を揮わせたなども、その一例である。

このように彼が、財政、兵政の整備充実に力を用い、士民を撫育して顕著な治績を挙げ、強大な国力を涵養していたことは、やがて維新の一大飛躍の時期到来と共に、長藩奮起の強靭な動因と進展したのである。

維新に果した重要役割

嘉永六年、米艦の浦賀に渡来以来、敬親は幕命によって相模、摂津等の海岸警備に任じていた。ところが安政五、六年に至り、外交問題、内政問題等に関する幕府の処断に対する非難が次第に喧しく、万延元年、井伊大老が桜田門外に斃れるに及んでは、国事は日に日に紛糾し、物情騒然として沸き返って来た。彼は、それより先、鷹司右府の密旨を受けて老臣周布政之助すふまさのすけを京都守護に当たらせていたが、まず穏健論をとって公武間を周旋しようとした。だが、遂に藩論を尊攘に決し、文久三年、攘夷祈願のため賀茂社、石清水社行幸を奏請した。そして、上洛した将軍家茂によって定められた攘夷期日である五月十日、下関海峡を通過するアメリカ商船を砲撃し、又、オランダ及びフランス軍艦をも撃った。この外艦砲撃が京都に伝わるや、倒幕派の志士達は勇躍して喜び、朝廷は勅使を遣わして賞せられた。

ついで其の八月、敬親は老臣増田弾正をして攘夷親征を奏請したが、この結果、大和行幸の朝議が一決した。然るに、京都守護職松平容保は之れを非とし、長藩と犬猿の仲の薩藩と謀って、俄かに朝議を転覆させた。ために、大和行幸は延引となり、長州藩主は堺町御門の警備を免ぜられ、藩士の在京は禁ぜられ、長藩と親近していた三條実美以下七卿は、長藩士と共に西走するの止むなきに至った。

ここに於て悲憤慷慨して奮起した長州健兒等は、重臣福原越後ふくはらえちご信濃親相しなのちかすけ益田右衛門介ますだうえもんのすけ等に率いられて上京し、上書して毛利敬親父子の無実を訴え、七卿の罪を赦されたいことを乞うた。だが、許されなかったので、松平容保を膺懲すべし、と京に入った。そして、蛤御門に於て会津、薩摩、桑名の兵と衝突し、ついに破れて走った。世にいう蛤御門の変である。

朝廷からは、長藩追討の命が幕府に下された。幕府は徳川慶勝を総督とし、二十一藩の兵を以て海陸から毛利氏を攻めた。さきに砲撃された怨を含むアメリカ、フランス、オランダ及びイギリスの軍艦も、幕府に応援して下関を砲撃した。激戦は三日間に亙り、長州藩は死力を尽して戦った。が、砲台が殆どすべて破壊され、外国陸戦隊が上陸するに及んで、敬親は遂にその無謀を察し、諸外国と和を結ぶと共に、幕府にも恭順を表した。

然るに、間もなく、長藩士高杉晋作等の急進派の志士達は、土佐の坂本龍馬を介して薩摩の西郷隆盛等と通じ、密かに暗躍して、遂に薩長連合を成立させた。

長藩の鬱勃たる再起を望み見た幕府は、種々な経緯を絡ませて、慶応元年四月長州再征を議決し、五月には将軍家茂自ら軍を督すべく、江戸城を発して大阪に来た。

此間、面倒な諸方の開港問題等が起ったため遅々としていたが、慶應二年、幕府は遂に進撃命令を発した。けれども最早や幕命に服する諸藩は少なかった。幕府は、それでも躍気になって、長州を再征したが、却って幕軍の旗色は悪く、長州領内へは一歩も侵入出来なかった。幕威は全く地に墜ちたのだ。

そうした所へ将軍家茂が薨じた。十五代将軍となった慶喜は、賢明に喪を秘して長州から兵を返した。かくて、同三年、幕府の大政奉還となり、世は明治元年となったのである。

敬親は鳥羽伏見の役、続いて東北鎮定に出兵し、参議権中将に任ぜられ、翌二年正月、薩土肥と共に版籍奉還を奏請し、同六月、従三位権中納言となったが、やがて辞任して世子元徳に職を譲り、明治四年(1871)三月十一日、五十三歳を以て沒した。明治三十四年正一位を追贈され、その霊を祀る県社野田神社は、大正四年十一月別格官幣社に列せられた。

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