井伊直弼言行録2、3

米使の来訪

旧台場は何物を吾人に語りつつありや

東京湾頭品海の蒼波を浴びて、唯徒らに牡蠣の繁殖に委する旧台場は、抑々吾人に何ものを語りつつありや。徳川家光鎖国を令して以後、世は泰平の春夢に耽り、旗下の武家多くは竹刀執る手に三絃を弄し、細身の大小は徒らに外観の美を競い、錙銖ししゅこれ事とする商売は、一夜の豪華に千金をなげうつ、実に文化文政より天保初年に亙る我国の上下は、太平爛熟の極に達せし時か、驕るもの久しからず、上下滔々として治平を謳歌するの際、一度眼を海外に放たば如何、我国民は恰かも砂上の塔に安座して囲碁に耽るの観あり。而も浦賀湾頭に突如として米艦渡来の事あり、惰眠驚き醒めて始めて此警鐘を耳にせる我国民の驚愕はそも如何ばかりなりけん。巨万の国帑こくどを費やして、築き上げたる品海の台場も、要はその周章の記念物たるに過ぎず。

家光が令せし鎖国の違法、よく二百年の命脈を保ち、海外諸国の敢て渡来するものなかりしは、国法よくこれを防止せしにあらずして、要は海外の情勢自然に我国法を助け、内外相因りてしかく持続せりと云うの外なからん、もし夫れ海外の情勢多大の変化を見る時の、その余波の来って我国勢を動かすは理の然らしむところ、何等其間に疑いを挟むべき余地なし。而も宇内の形勢に暗き我国民は、此大勢を察するの明なく、一意家光以来の旧令を盾とし、此の大勢に抗せんとす。何ぞその愚の甚だしきや。

外には渡来に次ぐに英仏の二国の来るあり、露また来って前年の失敗を雪がんとす。内には攘夷の論、勤王の説、倒幕の謀計交々起って輿論囂々ごうごうたり。実に寛永年間前後の如き国体の危機に迫りしこと、我国上下三千年を通じて未だかつてこれあらず。若し此の際に於て、国政を過らんか三百年来太平を夢みし徳川幕府と共に、三千年来一点の微瑕びかだになき国体は拭うべからざる汚辱を蒙りしやも測るべからず。

徳川家康江戸に幕府を開き、天下の政権を朝廷より委託せられし以来、国家の実力は専ら関東に在り。関東の勢力を以て国家の大任を双肩に負うものは徳川将軍なり。徳川将軍を代表して政務を双手に握るものは実に大老なりとす。斯くの如き時代に於ける大老執政の良否は、延いて国家の安危興亡に関す。誰かよく大老として此の難局に当り、国家の威信と幕府の声価とを失墜せず、内外の政務を円滑に行うものぞ。到底尋常の士を以てしては、此の難関に処する能わず。国家は実にかかる時一大偉人の出現を要望する事切なり。而して此の大難局を無事に解決し、幕府をして些の過失もなく、国家をして危機一髪の境地より転じて今日の降運に向かわしむべく、その卓見とその鋭才とを持って、大老の要職に就きし直弼なおすけこそ、真にその要望に適せる一大偉人なれ。直弼とはそも如何なる人ぞや。

井伊氏の始祖と其興隆

著者は直弼を語る以前に、井伊氏の始祖、及び直弼に至るまでの、井伊氏の興隆に関し、その一斑を述べざるべからず。そは彼の門地と家格とが、政治上に重きを為せる幕府時代に於て、彼の外交意見と政治上の一とを明かにするに便多ければなり。

井伊氏は遠くその祖を藤原氏に発す、贈太政大臣そうだじょうだいじん正一位藤原朝臣良門よしかどが六代の孫、備中守従五位下共資ともすけの男、従五位下遠江守共保ともやすこそ、実に井伊氏の始祖なれ。

井伊氏の祖

共保は、一条天皇の寛弘七年正月、平安の都を遠く離れし、遠江国引佐郡ひっさぐん井伊の谷の僻地に生まる。されば身は藤原氏の庶流なるも、詩歌管弦の遙逸よういつなる都の風流を他所にして、剛健なるスパルタ的武教に育てられ、長ずるに及んで剛勇の気愈々強く、屡々蝦夷を征して功あり、朝廷その功を賞して、従五位下に叙し遠江守に任ず。茲に於てか井伊ノ谷いいのやに一城を築きて永住の地と定め、井伊ノ谷の井伊をとりて以て氏とせり。

南朝の忠臣

共保より五代道直みちなおは、保元の乱に官軍に属して戦功あり、遠江介とおとうみのすけに任ぜられる。十二代道政は、元弘、建武の大変乱に際し、後醍醐天皇の徴に応じ、屡々賊軍を破り、その功に依り従五位下に叙せられ、遠江介に任官す。道政、益益忠勤を励み、延元元年には其兒そのこ兵部少輔ひょうぶしょうゆう高顕と共に、宗良親王を奉じて井伊ノ谷城に籠り、傾く南朝の為めに五十余年一日の如く義旗をひるがえして、足利氏に対し一敵国の感を抱かしむ。南北両朝和親のことありし後も、一片の義心は子々孫々相承けて、足利氏の禄を食むを好まず、裏心窃かに南朝の恢復を図りつつありき。

井伊氏の危殆

十九代直氏なおうじに至り、始めて駿河の今川氏に属し、東奔西走、攻守参戦に遑なかりしと雖も、しかも二十二代肥後守直親なおちかの時不忠不義の老臣が讒構ざんこうに逢い、其の主今川氏真うじざねの不興を蒙る。直親その寃を解かんと、主従僅か二十余騎にて、井伊ノ谷城を出で駿河に到るの途次、哀れむべし今川氏真が手兵の為めに討たる。茲に於てか、さしも栄えし井伊ノ谷城は、その領地と共に不忠なる奸臣が手に陥ち、藤氏以来連綿たりし井伊氏の血統さえも絶滅せんかの悲境に陥れり、而も天いかでか、かかる名家の亡滅を黙視すべき、当時、僅かに二歳となりし直親の遺孤直政は、辛うじて井伊ノ谷城を脱し徳川に頼りぬ。

徳川氏との関係

直政長ずるに及んで、徳川家康を輔け、遂に徳川氏創業の元勲となる井伊氏と徳川氏との関係は何れの時代、いかなる時機に於て結ばれしやと云うに、井伊氏二十代直平の世に、直平徳川広忠と深く交わる、而して家康の前妻関口氏は、直平の外孫女に当る、斯る縁故を以て直政徳川氏に人となり、大小幾十度となき徳川氏の野戦には、常にその先鋒となり有名なる井伊氏の赤備あかぞなえは、当時に於ける彼我共に深く怖るる処となる。

直政は野戦の将として常に其得意とせる突蒐の戦法を以て、敵を悩ますのみならず、帷幄いあくの謀臣としても亦、儕輩せいはいくの器量あり、素より本多佐渡、僧天海の如く権変の謀略には長ぜざりしと雖も、時局を観るの敏なるは、亦、彼等に勝ること多かりき。その小牧の役後、秀吉の和を求むるや、直政は諸将の議に反して、講和の利を説き「京兵素より恐るるに足らず、而も我が背後には北條、上杉、最上、宇都宮、佐竹の諸雄藩ありて隙を窺う、今、西に向って戦いを続くるは徒らに彼等の乗ずる所とならんのみ、此の戦勝の機を以て秀吉と和するは、当家の為め寧ろ利多し」と、遂に秀吉と和するに決しぬ。

而して彼亦おもえらく、天下の政権はやがて豊氏の手より徳川氏に移り、而もその移動の際に開かるべき一大戦は、必ずや美濃の野にあるべしと。故に彼此地このちを過ぐる毎に、詳に其地理を捜りぬ。而して石田三成の大阪に兵を挙ぐるや、直政は箱根を守備して上国の兵を待つべしとの議に反して、徳川氏天下に将たるべきの時機到りぬ、速に大旆を進めて美濃の野に出ずべしと主張し、関ヶ原の一戦には、先鋒、福島正則の軍に抽ん出て、得意の突撃戦に、豊氏の兵を潰乱せしめ、一挙徳川氏の手に天下を収めしと雖も、而も此の戦に於て銃創を負い、再び起つ能わざるに至る。直政功を以て従四位下に叙し、修理大夫に任じ侍従を兼ね、近江国佐和山城に封ぜられて十八万石を食む。

直政二男に女あり、長男直勝なおかつ痼疾こしつの為め家を継ぐ能わず、家康、命じて三万石を分かたしめ上野国安中城あんなかじょうに主たらしむ。二男直孝なおたか家を承け、佐和山城を琵琶湖畔彦根に移して、十五万石の城主となる。大阪役に従って功あり、更に五万石を増封せられ、累進して三十五万石を食み、正四位上左近衛権中将に叙任し、元和偃武えんぶの後は、主として彦根城にありて、封内の治を図りつつありしが、徳川二代秀忠、病篤きに及び密旨を受けて江戸に下り、秀忠の遺命を奉じて家光を補佐し、大政に関与して終身江戸に駐まり、二十九年の久しき、僅かに一度、将軍上洛の用を以て彦根に帰りしのみ、家光薨ずるや、再びその遺旨に依り、幼将軍を輔け、徳川の天下を鞏固きょうこにし以て元老たるの職責を全うし七十余歳の長寿を保ちてしゅっす。

直孝の果断

直孝は父直政に比して、稍々やや深沈なる態度を缺くも、機を察するの鋭敏なる侃然かんぜんとして所思を述べ、断乎として事を決行する諸点は、父に勝るとも劣る所あらざりき。酒井忠勝彼れを評して曰く、「徳川家の一大事よと衆の驚きしときも、老中不決断なるを直孝は直ちに決断せり、これまで将軍も決せず、老中も口々にて一定せざる時は、直孝腹をたたき、つまる所は是までなりと、一命を其座に極め、天下の事を一身に引受けし故、将軍にも許容あり、老中も心強くなりて、即座に評議決せり」と、さればかの福島正則の領地没収の如き、家康薨去後に於ける二代秀忠の将軍職を家光に譲らんとせし時の如き、又、四代家綱の代に、国姓爺の台湾に據りて、救を我に乞える時の如き、或は断然たる処置に出ずべきを論じ、或はその尚早なるを説き、或は我国力を徒らに疲弊せしむるの不可なるを主張し、その議を止めしが如き、終始、徳川氏の為めに奉公の誠を尽さざる事なし。

かかれば徳川氏の信任も亦、愈々厚く、諸侯の首位に列して、最も名誉ある家格を以て遇せられ、将軍の居室に近き黒書院溜ノ間くろしょいんたまりのまの首席に坐しむ。その彦根に封ざしも亦、家康の深き信任の依て来るところならずんばあらず。

そも近江は当時東山道の首部に在りて街道の要衝に当れる地なり。而も彦根は京師に近く、禁闕に万一の変あらんか、ただちに馳せて王城を守護するの便多し、家康は直政を信ずる事厚ければ、これに密旨を授けて、常に京師けいしの守護と、関西諸藩の万一を制するの重任を託す。されば井伊氏は常に兵船を琵琶湖に浮べて万一に備え、かの文久年間島津久光の兵を率いて京都に上りしときの如き、主上は時宜に依らば彦根城に潜幸せんこうあるやも測れずとの、密勅を受けしとさえ伝えられる。

信任は忠誠の心を産む

凡そ信任は尽忠の心厚きより来たり、信任はまた更に尽忠の心を生む、一度滅亡の淵に沈まんとせし井伊氏が、斯く徳川幕府諸侯の首藩に列し、京師守護の密旨をさえ授けらるるに至りしは、直政、直孝父子の誠忠と、戦場に於ける勲功とに依ると雖も、徳川氏の信任の深厚なりしに據る所多き、またここに多言を要せず。

されば井伊氏中興の祖たる直政、直孝の父子は、此の信任に報ずるが為めには、その国、その家、その一身を犠牲として徳川氏の為めに純忠の誠を致すべきを家憲とし、子々孫々に継承してかわるなからん事を期しぬ。

徳川家の犠牲者

「一国、一家、一身を挙げて徳川氏の犠牲たれ」ちょう美しき遺訓は、実に井伊氏歴世を通じて些の渝りなき一大生命たり。その直弼の出でて大老の重職に就くや、直弼の胸中には唯、此の遺訓の脈々として流るるのみ、戊午の大獄も、開港の断行も、皆徳川氏の安泰を計らんとするの微意に外ならざりしなり。而も奸臣と呼ばれ、黠徒きっとと稱せられ、甚だしきは国賊の名をさえ冠するに至る、世人何ぞ此大偉人を誤認するの甚だしきや。

[底本]
武田鶯塘 著『井伊直弼言行録』,東亜堂書房,大正7.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/953312 (参照 2024-03-11)

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