青木木米

年三十にしてはじめて志定まる

『近頃どんな書物をお読みですか?』

『最近、清で出版された全集物で「龍威秘書りゅういひしょ」というのが二部だけ長崎に輸入されましたが、早速それを買入れて読んでいるんですよ。』

そう云って、主人の木村巽齊きむらせんさいは客にその書物の説明をはじめた。全部で八十巻もあり、特に『陶説とうせつ』六巻はその中でも最も優れたもので、支那の陶器の沿革から分類、それから、その製法に至るまで研究した大著述である。主人が語りながら、次第に昂奮して来ると、まだ若い客もつい其れに動かされて、その書物を是非拝見したいと申し出た。で、主人は快く客の願を容れて、先にたって、客を書庫に案内する。それから数十日間、客はその家に宿り込んで、毎日寝食を忘れ、その難解な『陶説』を読み耽っていたのである。この若い客というのが、青木木米あおきもくべいである。彼はこれが動機となって陶器製作に志し、そして遂に陶工として、その古今独歩の芸術境を開拓することになったのである。

彼は京都祇園の木屋という茶屋の倅で、名を八十八やそはちといった。流石に茶屋の倅だけあって、粋な、垢ぬけした美青年であって、しかも、茶屋の倅らしからぬ鷹揚な気品を具えていた。それは彼が当時繁昌していた木屋の一人息子として、浮世の労苦を何一つ知らずに、我儘に育ったせいであろう。で、彼は早くも少年時代から恋愛生活をはじめ、一六七の頃には、既に一人前の遊蕩をやっていたものである。そして境遇が境遇であったから、彼が平凡な人間ならば、そうした生活に満足して、茶屋の主人として、のんきな一生を終ったであろう。しかし、彼は次第にその生活に飽き足りなくなって来たのであった。

当時はいわば京阪の文芸復興期ともいうべき時代であって、特に彼の家業が茶屋であったから、彼には日常、多くの有名な文人に接触する機会が多かった。極く少年時代、彼は大雅堂たいがどうなどにも愛されていた記憶があった。また大雅堂の友人の高芙蓉こうふようという人は傑出した学者であり、また画家であったが、この人も彼を愛して、絵の手ほどきをしてくれたり、読書を教えてくれたりした。多分そんなことが刺戟となっていたのであろう。遊蕩生活も盛にやったが、しかしまた、その半面に、手当り次第に、種々雑多なことを貪り学んだ。そして、何をやっても、彼はすぐに一人前以上の腕になった。例えば、道楽に医書を読み耽っているうちに、病人の脈をとることに興味を覚え、いつとはなしに名も青木玄佐あおきげんさと名乗って医者の看板を出してみたが、これが相当に繁昌したという話もある。だが、自分の才能を何に用いたらいいか、自分は果して何に適しているか、その頃の彼にはいまだ見当がつかなかったのである。そのうち、いつか年は三十になってしまった。三十にしていまだ志が定まらず、いささか自分自身をもて余し気味で、彼は時々憂鬱になっていたのである。

で、その日、ふと思い立って、客船に乗って淀川を下り、大阪船場ふなば呉服町ごふくまちの木村巽齊を訪ねて来たのも、実は当時京阪の知識階級の間に重きをなしていた巽齊と雑話でもしているうちに、何か自分の生涯の仕事に対する暗示でも與えられるかも知れないと、思ったからであった。――そして、彼ははじめて巽齊に教えられた『陶説』のおかげで人生の進路を発見したのであった。

『これが自分の一生をかけてなすべき仕事だ!』

巽齊の家を辞する時の彼は、歓喜そのものであった。

名工木米

三十を過ぎてから陶に入るのは不可能だと云われている。それは指先がもう固くなっているからである。しかるに八十八は三十にして陶を志し、しかも古今を通じて彼ほど短日月の間に陶工として名を挙げた者はなかった。五六年後にはもう彼は押しも押されもせぬ名家の一人に数えられていたのである。

それは勿論彼の天才にもよるが、しかしまた彼の寝食を忘れた研究と努力の結果である。その頃京都建仁寺けんにんじ奥田頴川おくだえいせんという名工があった。彼は豪商の隠居であったが、学問にも武芸にも通じた人で、陶器を作ることは、その余技であったが、しかしその作品が優れていたので、世人は争ってこれを求めた。で、八十八はよく考えた挙句、この人に弟子入を頼んだのであった。だが、八十八にとっては『陶説』が本当の、そして唯一の指導者であったことは勿論である。頴川に入門したのは、ただ実地の技術を学ばんがためである。それ故、入門したといっても、自分の家に自分自身の窯場を建て、手に入るかぎりの書物を求めて、それを傍らにして研究したのである。そのことが、ただ実地の勉強から入って行く普通の陶工の及びもつかぬ急速な進歩と、その作品の高い芸術的価値とを彼に齎したのである。

また、彼は乞食や浮浪人を使って、市の内外の至る所から陶器の破片を集めさせた。夕方になると、風流を極めた白川べりの彼の家の門前には、薄汚い乞食の群が列をなして集まって来た。彼は彼らが集めてきた陶器の破片を、勿論、その多くはまったく価値のないものであったにもかかわらず、みな相当な値で買い取った。しかし、時には掘出物もあった。すると彼は、それを見つけて来た乞食に多額な賞金を與えた。これで彼がいかに熱心に研究したかがわかる。そうした破片の中には、往々古代の名工が焼いたものが埋れているので、陶工にとっては得難い参考になるわけである。

さて、八十八はいつしか木米もくべいと呼ばれるようになっていた。それは木屋の『木』と、八十八を一字につづめ『米』からとって、自ら名づけた號である。

彼の名声を聞いて、まず招聘したのは紀州候徳川治寶とくがわはるとみであった。けれども、和歌山には陶器に適した土がなかったので、間もなく辞して京都に引揚げて来ることになった。それから間もなく、彼は青蓮院宮しょうれんいんのみや御用窯ごようがまを仰せ付けられた。これで陶工としては第一人者の折紙をつけられたことになったのである。これは文化二年六月、すなわち彼が三十八歳の時で、陶に志してから、ようやく数年にして、早くもこの名誉を與えられたということはまったくの異数なのである。そして、またその翌年金沢百万石の藩主前田齋廣まえだなりひろに招聘されて金沢に行った。しかし、この度も金沢城炎上という椿事が起ったため、文化四年には京都に帰って来なければならなかった。それから以後は、ずっと京都大和橋やまとばしの寓居で、悠々と制作に耽ることになったが、その頃から、彼は耳が遠くなったので、號を聾米ろうべいと改めた。その原因といえば、窯に耳を寄せて火加減を見る習慣から来ているのであるが、灼熱した窯に直接耳を近づける等ということは、彼より外には何人もなし得ないことであった。

彼の作品は純支那風であった。これは『陶説』から学んだ彼としては、当然のことであったろう。そして彼は古来最も難しとされた青磁にも成功し、支那の古名器に比して遜色なきものを製作したのであった。当時は南画漢詩の全盛時代であったから、彼の製作は、それらと共に、その時代を代表する芸術なのである。

家庭生活、交友、及び晩年

木米はまだ若い頃、許嫁のていと結婚した。しかし木米はよき良人おっとではなかった。少年時代から遊蕩兒だった彼は、四十四歳の時、はじめて長女を得たが、それでもなお遊蕩は止まなかった。のみならず、五十を過ぎてから、若くて綺麗なおまさという下婢を妾にしたりして、妻の貞との間には、夫婦喧嘩が絶えなかった。

また、木米はあれほどの名声を得ながら、年中貧乏だった。それは一つは彼の名人気質のためであった。木米は茶碗一箇作るにも、同じものを五箇も六箇も作り、それを自ら厳重に批判して、その中の一箇を残して、外は全部庭石に投げつけて砕いてしまう。また商人に品物を渡す時も、自分から値を云うことがなく彼等が次の間にそっと金包を置いて行くにまかせておいた。しかも衣服は常に羽二重を着ていて、その生活も極めて贅沢であった。そして金にはかまわず書物を買い、美術品を蒐める等で、妻の貞は一生生活の苦労が絶えず、家業の茶屋も止めることが出来ず、木屋の女将として采配をふって、一家の生計を維持して行かなければならなかった。そうした苦労の挙句貞が死ぬと、間もなく、木米の妾おまさは男の兒を生んだ。その時、木米はもう六十を過ぎていたが、益々盛で、陶器も焼けば絵も描いた。彼の絵は元来余技なのであるが、しかし、近年ますますその真価を認められ、画家としてもまた一流の中に数えられている。

だが、間もなく木米の身辺にもようやく秋風が吹きはじめた。妾のおまさは、長男を生んで四年目にまた妊娠したが、今度は不幸にも早産して、それがもとで文政十二年に死んだのである。

それから、天保三年の秋に、彼は親友頼山陽らいさんようを失った。彼の交友は、あらゆる方面に亙り、非常に広かったが、中でも頼山陽、田能村竹田たのむらちくでん、僧雲華うんげ等は肝胆相照らす仲だったのである。山陽は木米を評して

『吾輩天下の書にして読まざるはなく、天下の事知らざるはない。然るに木米老人に至っては、吾輩の未だ読まざる書を読み、吾輩の知らざる事を知っている。』と云った。木米の博学多識と高き見識と、その諧謔に富んだ座談によって、流石の頼山陽も常に煙に巻かれていたのである。

木米が死んだのは天保四年(1833)五月十五日である。六十七歳であった。五條坂ごじょうざか上行寺じょうぎょうじで盛大な葬儀が営まれ、墓の表には篠崎小竹しのざきしょうちくが筆を揮って、

『識字陶工木米の墓』と書いた。

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