支倉常長

支倉 常長(はせくら つねなが、1571年〈元亀2年〉‐ 1622年8月7日〈元和8年7月1日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての日本の武将(仙台藩伊達氏家臣)。幼名は與市、初名は六右衛門長経、キリスト教洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラ (Philip Francis FaxicuraFelipe Francisco Faxicura, Philippus Franciscus Faxecura Rocuyemon)

慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、有色人種として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。

(ウィキペディアより引用

遠く南蛮へ使いす

有名一世にひびいていた奥州の英傑伊達政宗だてまさむねは、南蛮諸国と通商貿易を結ぶことによって自己の勢力を更に鞏固きょうこなものにしよう、という遠大な抱負を抱いていた。そこへたまたま慶長十四年徳川二代将軍秀忠ひでただは天主教禁止の厳重な布令を発すると同時に、当時数多く我国に来ていた宣教師の中でも、最も声名の高かったルイス・ソテロをはじめ信者二十七名を捕え、その教会を破壊し、信者を悉く死刑にしようとした。ルイス・ソテロは慶長十一年以来我国に来て布教に従事し、当時は浅草に教会を建てて癩病らいびょう患者を集めて懇ろに世話しており、その徳を慕うものが日に日に増加するという有様だったので、将軍に讒訴ざんそするものがあって、この弾圧政策となったのである。

政宗はこれを聞くと、特に秀忠にルイスの助命を願って、彼を仙台へ連れてかえった。そして、ソテロから外国の事情をいろいろ聞くと、彼の南蛮通商の望みは益々さかんになった。彼は家臣の支倉常長はせくらつねなが今泉令史いまいずみれいし松本忠作まつもとちゅうさく等にソテロを師として南蛮諸国の文明についていろいろ研究させ、ついで多年胸中に抱懐していた雄図を実行する第一歩として、支倉常長を南蛮諸国、即ち西班牙イスパニヤその他へ派遣することとなった。

そこで政宗は、まず牡鹿おしか郡月の浦に造船所を設けて、幕府の御手船頭向井将監むかいしょうげんから船大工を借りうけた。そして船大工八百人、鍛冶工六百人、雑役夫三千人を使役して昼夜兼行四十五日ののち、長さ十八間幅五間半という、当時としては眼を瞠るばかりの巨船を竣工させた。

ここにおいて、かねてその豪放果敢な性格を政宗に寵愛されていた支倉常長は、選ばれて正使となった。そしてルイス・ソテロが案内役となり、これに随行するもの六十八人であった。彼等は慶長十八年九月十五日、月の浦をあとに出帆し、いよいよ鵬程万里ほうていばんりの旅路に上った。

そして雲烟うんえん万里ばんり渺茫びょうぼうたる大洋を航海すること実に百三十予日、翌年一月二十五日にようやくメキシコのアカプルコ港につき、一行はそこのサン・フランシスコ寺院で洗礼をうけ、更らに西班牙イスパニヤにむかって帆をあげた。海上幾度か暴風雨に遭い危険にさらされたが、同年の十月にようやく目指すイスパニヤの南海岸に到着することが出来た。彼等が更らに同国の首府マドリードに着いたのは十二月二十二日で、南欧西班牙にも白雪が陽ひとして霏々ひひとして振り乱れていた。――一行が故国の月の浦を出帆してから実に一年三ヶ月の長い船路だったのである。航海術も造船術も発達していなかった当時として彼等の旅行が如何に困難をきわめたか想像にあまりあるものがあろう。

翌年の正月二日に、一行は馬車に乗り、衛兵の堵列する中を王宮へ向って威儀堂々と参内し、豪奢華麗な宮殿内の謁見室で、常長は国王フィリップ三世に面謁し、主君政宗からの信書を捧呈し進献物を贈って、旅程万里はるばる渡航した使命を果したのであった。

羅馬法王に謁見す

常長の一行は西班牙に滞在すること八ヶ月の後、羅馬ローマに向った。まずゼノアにおいて鄭重な歓迎をうけ、続いて陸路ローマに進み、法王に内謁見した後で、十月二十九日に盛大な入都式が行われた。

この日彼が西班牙公使の盛装馬車に乗ってアンゼロ門に到着すると、宮殿の大馬車と大行列が迎えに来、近衛兵五十騎の前駆に続いて行列は御苑の中に進み、各国の大使や貴族が粛々とこれに従い、彼は法王の愛馬に跨ってローマ貴族ヴクトリア・アントニオ公と並んで堂々と進んで行った。近衛兵のうち出す祝砲は天に轟ろき、荘厳な奏楽は四辺を圧するばかりであった。これをもっても、東海の国からはるばる使いした彼が如何に歓待されたかがわかるであろう。この日彼は烏帽子えぼし直垂ひたたれの正式礼装、随員一同の者も亦鎧下よろいした小袴こばかまをはき陣笠を冠っていたという。各国の大公使や貴族顕官たちが見慣れぬ東方の異風俗に眼を瞠っている中を歩武堂々と進んで行った光景には、豪放大胆な彼の真面目が躍如として、我国外交史上に光彩陸離たるものがあるではないか。

彼は上客の礼をもって迎えられ、法王パウル五世に謁見し、政宗からの信書と贈り物を捧呈した。そして我国陸奥に宣教師を派遣すること、イスパニヤ領国との通商貿易締結について尽力されたいことを要請した。続いて盛んな歓迎の宴が催され、常長にはローマの市民権が贈られた。その證書羊皮紙に記したもので今も伊達家の宝庫に保存されている。又、法王は自分の油絵像を政宗に贈り、同時にその人の真実の姿をよく伝えているかということを証明するために常長の像を描かせて贈った。この二つの肖像も亦前者と同様伊達家に保存されている。その伊達家に伝わる彼の肖像は、祭服を着、合掌して神を礼拝しているものである。もう一つ彼の肖像はローマにも保存されているが、それは外套を着ズボンを穿き両刀をたばさんているもので、いずれも『その面高顴広額、一見してその偉人たるを知るべし』と『仙台市伝』は伝えている。

翌年四月彼は再びイスパニヤへもどったが、同国政府は政宗に対する返書をフィリッピン総督に送って日本における耶蘇教の状況に応じて交付することにして直接常長の手に渡そうとしなかったので、常長は直接その書を受取らないで帰国の途につくわけにはいかぬ、そのためにはるばる遠くまで使いしたのではないかと主張し、セビーヤ港に滞っていた。そこで政府は再三その処置について協議した結果、遂に国王の書を彼の手に渡した。が、その文面は耶蘇教の保護を依頼するというだけで、政宗が目的としていた通商交易のことについては何等触れていないので、彼は再び帝王に書を送って、宣教師の同伴と交易を開きたいと申し込んだが、政府は日本に於ける耶蘇教禁止や信徒迫害を理由にして、彼の奏請は如何にしても容れられなかった。

ここに到って彼は萬止むを得ずとして、元和五年帰航の途についた。同年の六月二十日に呂宋ルソンにつき、翌年八月、月の浦に帰着した。慶長十八年に船出してから、実に八年の歳月が経っていた。

彼は政宗に、法王国王の返書と夥しい土産品を贈呈し、南蛮の事情をくわしく復命した。政宗は非常に喜んでとりあえず当時西班牙領であったフィリッピンと貿易を開始しようとしたが、幕府のキリシタン禁制は益々峻烈となり、耶蘇教徒はいずれも斬刑に処せられ、又海外と通商するものも処罰されるという状態だったので、政宗や常長の折角の雄図も空しく挫折せざるを得なかった。

邪宗の嫌疑をうく

彼は伊達家累代の臣支倉時正はせくらときまさの弟山口常成やまぐちつねなりの子で、長じて支倉家を嗣いだ。元亀二年(1571)の生れで、幼名を與一といい、後六右衛門ろくえもんと称していた。幼少の頃から伊達政宗に仕え、六十貫二百四十三もんの地を領し、大御番組だいごばんぐみに列していた。文禄年間朝鮮の陣の際も政宗に従って戦功があったというがつまびらかでない。非常に豪放大胆な性格で、彼が選ばれて遠く欧羅巴に使節の任を果たしたのも、その豪毅さを深く政宗に信頼されたからであって、政宗の遠望偉略といい常長の豪胆な大志といい、真にこの君あってこの臣ありと云うべきであろう。

徳川幕府のキリシタン禁制がいよいよ厳しくなるにつれて、彼も遂に免かれることが出来ず、帰朝後幾何かもなくして捕えられた。刑場にひき出され、将に斬られようとした時、仙台の光明寺の住職が来て、常長は自分の檀家の者であると証言したので、既に危ない命をやっと助かった。しかしながら、海外雄飛の初志は到底充たされるべくもなく怏々としているうちに、元和八年(1622)七月一日に、五十二歳をもって病に斃れた。キリシタン宗徒として死刑に処せられたという説もあるが、事実は病死したのである。尚、彼には常頼、常道の二子があったが、彼等はいずれも邪教信仰の嫌疑によって、寛永十七年に多くの従僕たちと共に死刑に処せられた。常長自身も西班牙で洗礼をうけて帰ったのであるから、その子がキリシタンの疑いをうけたのも、亦止むを得なかったであろう。

渡航の目的について

政宗が支倉常長を南欧に遣わした目的については、従来いろいろの説が行われていた。即ち政宗は耶蘇教に深く帰依していたので、これを弘めるために羅馬法王の加護をもとめ、宣教師派遣を請うたという説、次に政宗は南蛮を征服しようとしてまず宗教の仮面をかぶってその本国の情勢を探らせたという説、更に政宗は西班牙と通商を結ぶ一方、耶蘇教の勢力を利用して幕府を転覆し徳川氏にかわって天下の権を掌握しようとしたのであるという、三つの説である。

政宗がソテロを庇護したり、常長を欧羅巴にやったりしたことは、一見彼が熱心な耶蘇教信徒のようにも見えるが、これは彼が将来通商開始の野心を達成しようとした外交手段と見るべきであろう。又、彼が島津氏の琉球征服などに刺戟されて南蛮国を征服しようとしたという説など、如何に伊達政宗が英雄であっても僅かに極東の一大名の兵をもって当時欧洲に覇を称えていた一大強国を征服しようとしたなど、政宗の聡明を知らぬものの牽強付会の説と見るべきであろう。まして倒幕に利用しようとしたなど、既に天下の形勢が定まっていた慶長末期にそんな無謀なことを考えたとも思われぬ。政宗が一代の英雄であっただけに種々の揣摩臆測が行われたのであろう。が、遂いに真相は明らかにされ、一層彼等の偉大さが光輝を増す時が来た。即ち、明治六年に岩倉具視が大使となって欧洲に使いし、支倉常長に関係のある種々の文書を発見し、それを基礎として研究した結果、彼等の目的は一に通商貿易を開くことにあったことがはっきり判った。不幸にして時の利を得なかったとは云え、政宗の遠謀熟慮と常長の豪放大胆は百代の後、猶燦然と輝いている。

[底本]
菊池寛 監修 ほか『日本英雄伝』第8巻,非凡閣,昭11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1222383 (参照 2024-03-16)

コメント