高杉晋作

非妥協の一生

維新の志士中で最も性格の鮮やかな詩人的風格を具えた人物を求めるならば、誰しも先ず高杉晋作たかすぎしんさくに指を屈するであろう。西郷南洲さいごうなんしゅうが超弩級の戦闘艦であるとすれば、高杉晋作は正に潜水艦である。前者には山のような巨涛きょとうの間を悠然と乗り切って行く面影があるに反し、後者には鳥ならば隼、魚ならば飛魚のように、眼にも止まらぬ速さで人々の意表に出る気魄が感じられる。彼の一生は、徹頭徹尾、この気魄で押し通した非妥協の一生である。

彼の行動は外面的に見れば、奇矯と過激の連続であったが、それは要するに彼の内部に潜むこの気魄の止むに止まれぬ発動に外ならぬ。明治維新の歴史的舞台において、長州藩は倒幕攘夷の急先鋒であったが、その中でもこの主張を飽くまで頑強に固持して第一線に活躍した人物は高杉晋作である。

幕府の公武合体政策を中心として藩内に二つの党派が対立した時、この政策を支持する俗論に猛撃を加えて藩論を統一し、長州藩をして次第に高まり行く倒幕運動の指導部隊たらしめた者は彼である。彼は自説の貫徹のためには、脱藩をも辞せず投獄をも厭わず、時には藩公の前に罷り出て諫言することすらも敢て恐れなかった。

長州藩が幾度か内外の困難な情勢に再会しながらもよく、その危機を切り抜けて新しい活路を見出したのには、機を見るに敏なる彼の識見と烈々たる気魄とが大いに與って力がある。彼は平時の英雄ではなくて、何処までも非常時の俊傑であった。そしてかかる時代においてこそ、彼の才能は百パーセントに発揮されたのである。

松下村塾の双璧

高杉晋作は、諱を春風しゅんぷう、字を暢夫ちょうふといい、春樹の嫡子として天保十年(1839)八月二十日、長州萩城下の菊屋横町に生れた。桂小五郎の家とはすぐ隣り合わせであり、久坂玄瑞くざかげんずいの家ともあまり離れていなかった。久坂玄瑞と彼とは殆ど同年輩だったので、幼少の頃から遊び友達であったが、桂小五郎は彼より六歳も年上だったので、友達というよりは何時も彼に兄事していた。

彼が松下村塾しょうかそんじゅくに入ったのは、安政四年、丁度彼が十九歳の時で、久坂玄瑞はこの時既に塾に入っていて、吉田松陰から塾中第一等の人物であると折紙を付けられたほどの秀才であるが、高杉晋作が入塾するに及び、二人は松下村塾の双璧として並び称せられるようになった。

松陰は玄瑞の人格と深慮を愛すると共に、晋作の識見と気魄を愛し、この二人によって自分の精神と事業とを達成しようとひそかに考えた。そこで高杉の前では久坂を誉め、久坂の前では高杉を讃めるというやり方で、双方を等しく立派な人物に仕上げようと一方ならぬ苦心と努力を払った。

安政五年七月、高杉晋作が江戸遊学の途に上ろうとする時、松陰が晋作に贈った文章には、彼を戒めると共に彼の将来に対する嘱望と愛情とが細やかに表現されている。一代の先覚者吉田松陰からそれ程その将来を嘱望され、深い愛情を注がれたのを見ても、彼が年少の頃から如何に非凡な人物であったかが解るであろう。

高杉晋作の攘夷論はその師松陰から受けついだものであった。吉田松陰はその識見の高さを以て天下に鳴り響いていた当時の開国論者佐久間象山さくまぞうざんに啓蒙されて、日本が晩かれ早かれ開国の策に出なければならぬことを覚っていた。然しそれには最早日本の政治を指導する力を失った幕府を打ち倒し、それに代わるにより強力な政府の手によって、この政策を実行することが何よりも必要だと考えた。そして尊王攘夷は徳川幕府に対立する一大勢力を結成するための当面のスローガンであった。

晋作はその後上海に渡り、外国の新しい事情に通ずると共に、松陰の考えの正しさを益々深く信じ、如何なる困難を排除しても松陰の偉業の達成のために、戦おうと決心した。

米国の軍艦が浦賀に来たのを機会に渡航を企てて失敗し、郷里野山の獄に送られ、一旦釈放されて、謹慎の傍ら、松下村塾を再興して全国の志士と私かに気脈を通じていた松陰が、再び幕府の忌諱に触れ、江戸伝馬町の獄で斬罪に処せられたのは、安政六年十月二十七日のことであるが、その後、松陰の墓は幕府の圧迫を受けて墓碑をすら立てることが出来なかった。ところが、尊王攘夷が漸く世論を支配し、京都の朝廷から所謂安政の大獄で断罪に処せられた志士の罪名削除の令が出たので、松陰の恩義を深く感じ、その偉業達成の意志に燃えていた晋作が発起人となって、松陰を始め、小林民部権大輔みんぶごんだいふ頼三樹三郎らいみきさぶろうの三人の志士の遺骸を盗賊などと同じ地域に置くに忍びないとて、小塚原こづかはらから移して、清爽の地世田谷若林に改葬した。この時、高杉晋作は馬に跨って葬列の先頭に立ち、伊藤俊介その他が棺を擁してこれに従ったのであるが、行列が進み進んで上野の三枚橋に達し、高杉の馬蹄が将に橋板に触れようとした際、将軍が上野東叡山に登るためだけに架けられたこの橋を警護していた同心たちが『何奴じゃ、無礼者!』と怒鳴りながら制止した。すると晋作は、大刀をズバリと引き抜き『我々は天下の志士吉田松陰先生の御遺骸を奉じて若林へ向かう者じゃ。将軍の道路も何もあるものか!』と怒鳴り返した。そして同心達の度肝を抜き、さっさとその橋を突破したという。これは彼でなければ出来ない芸当であると共に、自己の主義の貫徹と恩師への報恩のためには、将軍の権威をも恐れぬ彼の非妥協性の現れである。

騎兵隊の編成

公武合体論は朝廷と幕府との間に姻戚関係を結ぶことによって、各藩の倒幕論を抑えようとする幕府の懐柔政策の一つであり、土佐藩主山内容堂などこの周旋に最も奔走した一人であるが、薩摩の島津久光や長州藩主毛利敬親もうりけいしんなども藩内の保守論者に引きずられてこの論に傾く傾向があった。そこで高杉晋作は京都に上り、世嗣元徳公を通じて公武合体の不可を説き、長州藩としては飽くまで倒幕に邁進すべきことを主張したが、遂にこの主張は容れられなかったので、彼は頭を剃り落として坊主姿となり、西行さいぎょうの向うを張って東行とうこうと號した。その時の歌が、

西へ行く人を慕ひて東行く 我が心をば神や知るらん

というのである。彼はそれから暫くの間京都に留まり、日夜同志の間を奔走したが、事は志と喰い違って来たので、文久三年五月郷里の萩に帰り、護国山下に隠れて機会の来るのを待った。

一方において幕府は国内の攘夷論に圧され、文久三年五月十日を期して攘夷を実行すべしという勅命を仕方なく引受けたのであるが、期限が来てもその実行を怠ったので、遂に馬関の要塞を固めていた長州藩の兵士達が、六月一日馬関沖で英艦を、同月五日米艦を砲撃して攘夷の火蓋を切った。けれども武器の貧弱と兵士の訓練の未熟さのために、長州藩は大敗し、国内は一大混乱に陥った。そしてこの時局を収集するために護国院の幽居から召出され、馬関防御係に命じられたのが高杉晋作である。彼は時こそ来たれりとばかりに勇躍し、藩公の前に召出されるや、これまで、太平の夢を貪り、柔弱に流れて来た門閥氏族の師弟は固より頼むに足らぬ、今後は貴賤の階級を問わず、たとい百姓町人と雖も胆力あり体力ある壮丁を募り、これを精選して充分の訓練を與え、隊伍を編成するならば、始めて海外の強敵に当り得るのである、という意味のことを建議した。

この建議に基づいて新たに編成されたのが即ち有名な長州の騎兵隊であり、彼は推されてこの隊長となった。後年、幕府の尨大な長州征討軍を悩まし、散々に敗北の憂目を嘗めさせたものはこの騎兵隊であり、日本近代陸軍の萌芽たる騎兵隊の組織者としての高杉晋作の功績は、わが国の軍制改革の上において沒すべからざるものである。

牢獄から講和使節に

馬関の防備を完全にするために、高杉晋作の建議に基づき、騎兵隊の外に先鋒隊を派遣したのであるが、この騎兵隊と先鋒隊との間に紛争が起り、紛争の責任者が切腹を命ぜられると共に、高杉晋作もその責を引いて隊長の職を退き、政府の用談役となり、更に藩の奥番頭となって周布政之助すふまさのすけを助けた。然るに京都の情勢は攘夷派に利あらず、長州藩は朝敵の寃を受け、この寃を雪ごうとして禁門の変が起り、久坂、福原、その他幾多の将士が戦士し、来島又兵衛きじままたべえが京都における君側の奸臣を除こうと上京しようとしたのを高杉晋作が留めたが、不成功に終り、遂に彼自身も上京した廉で、野山の獄に入れられ、やがて自宅の座敷牢に繋がれ、外部との面会を一切禁止される身となった。

ところが、英、米、仏、蘭の四国連合艦隊が相率いて馬関に迫り、長州軍が連戦連敗を重ねている真只中に、元治元年七月、故国の急を聞いてロンドンから慌ただしく帰ってきた伊藤俊介いとうしゅんすけ井上聞多いのうえもんたが当局者に面会し、外国の情勢を説き、直ちに講和を結ぶように建議し、この講和の重大使命を果す者は、高杉晋作を措いて外にないと主張した。藩公も二人の熱烈な主張に動かされ、高杉晋作は禁囚の身から一躍講和使節に選ばれた。

彼は講和使節に挙げられるや、自らを藩老の首座に擬し、鎧、直垂を着用し、仮に名を宍戸刑馬ししどけいまと如何にも家老らしく改め、副使には渡邊内蔵太わたなべくらた杉徳輔すぎとくすけ等を従え、堂々と英国の旗艦に乗込んだ。当時世間ではその応接ぶりの幼稚さについていろいろと悪口を云ったが、臨機応変な彼の手によって講和談判は案外にすらすらと進捗し、これを機会に英国と長州藩との間に固い密約が結ばれ、倒幕運動のためのより強固な基礎が出来上がった。

その後、幕府の長州征伐を中心として藩論は二つに分れた。藩内における急進派の先鋒たる高杉晋作は俗論党に狙われて筑前に逃れ、九州諸藩の一大連合のために日夜活動を怠らなかったが、馬関で喀血して以来、再び起つことが出来ず、一代の風雲児高杉晋作も明治維新の暁光を見ずして慶應三年(1867)四月十四日、二十九歳の若さで沒した。明治二十四年四月正四位を贈られている。

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