久坂玄瑞

深慮の尊攘論者

元治元年七月十八日、久坂玄瑞くさかげんずい真木和泉まきいずみ来島又兵衛きじままたべえ等を始めとする長藩尊攘派急先鋒の面々二十数名は、益田右衛門介ますだうえもんのすけの本営である男山八幡神社で軍議を開いた。――これより前、文久三年八月のクーデターで、尊攘派の三條以下七卿は参内を停止され、長州藩主毛利敬親もうりたかちか父子は入京を禁じられていた。玄瑞等は藩主及び七卿の冤罪を雪ごうとして、朝廷と幕府に嘆願書をたてまつったが、その結果は却って悪かった。京都守護職松平容保まつだいらかたもりに征長の挙を奏請させ、一橋慶喜ひとつばしよしのぶを激憤させて、ついに朝議は長州征伐を断行することに決まってしまった。玄瑞等の軍議は、この険悪な情勢に直面して長州のとるべき対策を練ることであった。まずこの中での高齢者来島又兵衛が初めに言った。

「各々進軍の用意はよろしいか。事ここに至って今更対策も評定も必要あるまい」

衆議は何の躊躇もなくそれに一決しようとした。するとこの時、玄瑞が落ちついて口を開いた。

「勿論情勢はそれほど急を告げてはいる。だが吾々にはまだ後詰がない。たとえ直ちに進撃して闕下に迫っても百敗あって一勝の望みはないのだ。暫く退いて戦機を待つのが賢明であろうと考える」

「何を申す。医者坊主に兵事が分るか。今や幕府は諸藩に令して吾々を討たんとしているのだ。何で便便として迂遠な策略に時を過す場合であろう。そういうお手前は拙者達の働き振りを黙って見ておれ」

昂奮した来島が罵詈雑言にも等しい言葉を浴びせかけた。玄瑞はしかもなお騒がず、今にわかに禁闕に迫ることは先方の術計に陥って叛名を負う所以であるから世子廣定公の来着を待とうと論じた。だがそれはただ卑怯呼ばわりをされるだけにしか役立たなかった。軍議は彼の提言を斥けて直ちに進軍と一決したのである。玄瑞は満面蒼白となってただ沈黙を守った。卑怯呼ばわりをされたからではない。深慮遠謀、どんな事があっても長州の寃を雪ごうとしていた彼である。武力よりも外交政策によって局面廻転の解決をしようとし、またそれより他には方法がないと考えていた彼の意図が、衆議によって無惨に粉砕され、憂うべき砲火の巷はもはや避ける事の出来ないものとなって刻々に迫ってきたからであった。

寺田屋事変前後

久坂玄瑞は天保十一年(1840)長門国ながとのくに萩平はぎだいらに生れた。通武みちたけまたは義助ぎすけとも称した。家は長州候の医官で、父は良迪りょうてきといい、玄瑞はその次男である。彼は非常に沈着な性格の所有者で、しかも常に誠実を旨としていたのでいつも同志の尊敬をうけていた。その点は吉田松陰の塾に学んでいた頃、松陰が彼の人物を見込んで妹を許婚としたことによっても窺える。十七八歳の頃九州に旅をし、それから山陽、東海を経て江戸に行き、一年程して帰国してからまた江戸に行った。この頃世はまさに鎖国の夢から覚めようとする混乱期であった。吹きすさぶ時代の嵐は、日毎に険しさを増して、やがて来る黎明をめざして移行しつつあったのである。さて玄瑞の思想はこの時代の嵐と如何に相克して行ったか。

嘉永、安政以来幕府の綱紀が弛緩すると共に諸大名は挙って政治に嘴を容れ始めていたが、万延、文久となり幕府が公武調和を画策すると、大きい藩はそれぞれ擡頭の好機が来たと云わぬばかりにその斡旋を開始した。長州藩がその挙に出たのは文久元年の春で、長井雅楽ながいうたはいわゆる開国遠略策を提げて京都に、次いで江戸に出かけた。然るにこの公武周旋策は開国論であって、幕府のために朝廷の反省を促そうとするものであったがため、尊皇攘夷論者は猛烈にその実行に反対した。

久坂玄瑞は長藩に於ける反対者の急先鋒であった。彼は京阪の間に奔走して長井の画策を打破すると共に当時大阪にいた志士清川八郎きよかわはちろう田中河内介たなかかわちのすけ等と結んで頻りに倒幕計画の暗躍を続けていた。こうして長井雅楽がその功を奏し得ず江戸に赴いたのは、翌文久二年の春であった。ところが長井と入替りに薩藩の島津久光が兵を率いて入洛した。勿論朝幕間の周旋のためであった。志士達はこの時久光が尊攘を断行するものと考えていたのであったが、久光は公武合体の意見を奏上し、見事にその期待を裏切ってしまった。期待の外れた志士達はそこで遂に、九條関白と所司代酒井忠義を屠り、青蓮院宮の幽閉を破ってこれを奪い、宮の参内を促して一挙に倒幕を断行しようと決議した。勿論玄瑞もこの謀議に與っていた。ところがこれを漏れ聞いた久光は、志士等の集合していた伏見寺田屋に向け急いで鎮撫使を派遣したため、ついにこの大計画は抱懐し、ただ流血の惨を見たのみで終ったのである。時に文久二年四月二十三日、いわゆる寺田屋事変がこれである。この日玄瑞は田中河内介の邸に潜んでいて火の手の揚るのを待っていたため、事変には難をのがれ、直ちに第二弾の活躍に移った。

この寺田屋事変は然し単なる流血事件のみでは終わらず、歴史の推移に対する拍車となったのであった。関白九條尚忠は四月晦日に辞表を提出し、これと同時に安政の大獄以来謹慎の身となっていた近衛忠煕このえただひろ鷹司政通たかつかさまさみちが勅によって参朝を許され、青蓮院宮の永蟄居が解かれた。これは島津久光の意図が実行されたわけであった。こうして京師の形成は一変し、長藩の長井等の考えていた事とは愈々距離が大きくなった。そればかりか長井は、その奏上した書中に不穏の言葉があるという理由で朝廷の嫌疑を蒙り、帰国謹慎を命ぜられたのである。従って長藩は京都での立脚地を失ってしまった。玄瑞は長藩をこのような逆境に立たせたのは奸賊長井の所業であると断じ、福原乙之進、堀真五郎、寺島忠三郎、野村和作、伊藤俊介等と謀って長井の帰国の途を要撃しようとしたが、道を違えたため事は失敗に終った。そして彼もまた京都の藩邸に謹慎の身となった。

七卿落前後

長州藩主毛利敬親は長井雅楽と入違いに入洛して奏上文謗詞事件の誤解を晴らし、長州の立脚地を挽回して、再び国事周旋に努力することになった。この結果十一月に至って勅使三條實美等が江戸城に行き、攘夷期日を奏聞すべき旨の勅諚を将軍に授けた。だが、幕府は容易に動かなかった。

玄瑞が高杉晋作、松島剛蔵等と横浜の外国公使館襲撃を企て、品川御殿山の英国公使館を焼いて攘夷の気勢を揚げたのはこの頃である。明けて文久三年正月、玄瑞は寺島忠三郎、轟武兵衛、河上彦斎等と共に、上京した一橋慶喜を旅館に訪ねて攘夷期限の決定を促した。だが慶喜は言を左右にして応じない。

そこで玄瑞等は同志を代表して鷹司関白邸に赴き、攘夷期限を定め、国事掛を精選し、言語を開くの三策を上書し、死の覚悟でその決裁を迫った。その結果関白は宸断を仰ぎ、すぐその夜勅使が慶喜の旅館に向った。そこで漸く慶喜は動き、帰俯後二十日を限っての旨を奉答し、期限はほぼ定まった。

かくして長藩の運動はますます活発となり、攘夷親征の論を進めて、ついに大和行幸は実現される運びとなった。親征行幸は当然御親兵の整備、軍資御調達等のためであり、則ち兵馬の権を幕府から回収遊ばされる端緒であった。だがこのような長藩の活発な作動は、やがて諸藩の反感をよび、殊に薩藩は長藩の京都に於ける勢力を一掃しようとして、会津藩と共に頻りに暗躍した。そしてその結果はついに八月十八日のクーデターとなり、七卿落の悲劇となって、長藩の地位は全く逆転したのである。

玄瑞はこの政変後もなお京都に潜伏して時局の形勢を探っていたが、まもなく帰国し、十一月に至って再び入京、形勢を探ること四ヶ月で帰藩、そして長藩の尊攘志士の京都回復改革が熟すると、真木和泉、来島又兵衛等と兵を率いて出発した。それは元治元年の初夏であった。

まず大阪に上った玄瑞は、藩主敬親父子の雪冤と七卿の官爵復帰のために淀藩に託して屡々嘆願書を上った。恰も京都守護職松平容保が新選組に命じて京都に潜伏中の攘夷、倒幕派の志士の検挙虐殺を続けている時である。玄瑞等の嘆願は容れられるどころか却って、逆効果となって表れた。六月五日、長藩の志士を主とした諸藩尊攘派の秘密会合は突如新選組の襲撃を受けたのである。かくて朝議は急速に長州征討断行に傾き、長藩の態度もまた自ら主戦論に走らざるを得なくなった。禁門の変は愈々その端を開いたのである。

禁門の変と彼の最後

前夜から進軍した伏見に於ける福原越後の兵は大垣藩兵と戦って敗れ、天龍寺の国司信濃の兵は蛤御門と中立売に会津、筑前の兵と戦い、頗る優勢であったが、これも桑名、薩摩の新手を迎えて脆くも敗走した。来島又兵衛、兒玉民部の率いた兵は相合して蛤門に向い、会津の兵を破って既に禁門内に尖兵が突入しようとしたが、突如薩兵の側面攻撃に遭って隊将来島が戦死し、これまた敗退しなければならなかった。

山崎に據った玄瑞、真木の兵五百余人は桂川を渡渉して松原通りを烏丸に出て四條通りを柳馬場北へ押上り、鷹司邸の裏門めがけて繰込んだ。この時早くも会津、薩摩の兵は雲霞のように押し寄せて邸を包囲し、あたりは忽ち銃火の巷と化した。奮戦突撃、激甚を極める刻々はこうして次第に移って行った。と、突如玄瑞は前こごみに倒れた。銃丸に脛を貫かれたのである。この時彼はもはや万策尽きたことを自覚した。彼は邸内の奥の間に到ると入江九一いりえくいちを呼んで後事を託し、徐ろに諸肌脱いで胴巻きを外すと、腹真一文字にかき切り、かえす刀を両手に取り頸の後ろから我と我が首を刎ねた。時に元治元年(1864)七月十九日、玄瑞はまだ二十五歳の青年であった。

彼は尊攘論者のうち急進的な点に於て、一人長州を代表して居り、沈着な気魄と卓越した識見では諸国の志士の間にも巍然として重きをなしていた。彼の焼討事件、暗殺企画等もこれを軽佻とは断じ難い。彼はまた文才に秀でていて、秋湖、江月齋と号し、国歌、漢詩などは全く素人の域を脱していた。遺稿は数多くあるが、江月齋文鈔は当時出版されていた。明治二十四年靖国神社に合祀され、同年正四位を贈られた。

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