葉隠武士道

我国の士道を説くもの指を屈するに遑ない位であるが、旧佐賀藩士に広く読まれた所謂鍋島論語という「葉隠」位徹底した武士道は他にあるまい。之を軍部側から見れば攻撃精神の徹底せるものといい、銃後国民側から見れば尽忠報国の徹底せるものといい、大乗的国策の見地よりすれば大慈悲心の徹底というべきであると信ずる。

今日我等国民は前古未曾有の容易ならざる大国難に遭遇している。之を打開して皇国本来の大使命を達成せんが爲に何が最も緊急要事であるかといえば、ものの徹底下である。内治も外交も経済も将又武力行使もそうであるが、就中この機を掴んで国民全体が一人残らず真個の日本人と生れ更ることの徹底が欲しい。

この要期にあたり松波君が「葉隠武士道」の普及を企図せらる。洵に適切有効なることを信じ、広く江湖に推奨する次第である。

竹富邦茂識

私は先に「葉隠武士道」を上梓した。それが圧倒的に世に迎えられ、しかも陸海空を問わず多数の皇軍将士の愛読を忝うしたことは、著者として全く感激措く能わざるところであった。これ「葉隠」が武士道の精髄であり、烈々耿々たる臣道の実践者たる愛読者の共鳴を得た故である。「葉隠」は云う迄もなく、最も徹底した武士道を説いた書であり、まっしぐらに吾々の細胞に飛び込んで来る書であり、吾等の直感と心臓に喰い入って呉れる教書だからである。

今や世界に歴史あって以来嘗つて無き大転換の時機に於て、私は「葉隠」の有つ、強靭な、肺腑を衝く迫力を一層強調せざるを得ない。既にして大政翼賛の後裔を擔う吾人は、その豁然として大悟する処を更に拍車をかけて堂々大歓喜の進軍譜を奏せねばならないのである。其処に私が本書を生んだ意図がある。喰い足りないことは「葉隠」の厭う処である。即ち云い足りないところを云い切ったと云う点に読者の共感を得れば著者としての光栄之に過ぎず、且つ本書が有史以来の大聖業「大東亜戦争」完遂の爲に現地銃後を通じて役立つ処あれば、それは「葉隠」の原述者の凛乎たる武士道の信念に由るのである。

大東亜共栄圏の暁光を仰ぎつつ
著者識

『尚、本書は浩瀚なる「葉隠」の真髄を餘薀なく伝えたつもりである。
「葉隠」には重ねて説かれし処多く、それに本書に説く以外は、逸話並に佐賀藩の記録の集成が大部分を占めて居り、「葉隠」の全幅は本書の熟読によって体得さるゝことを信ずる。』

徹底する処に勝あり

心静かに伝家の一剣を磨く。眼光は知らず知らず、炬の如く、其処に一点の曇りも見逃さない。鵜の毛で突いた程の錆をも丹念に拭う。幾度も幾度も――。

かくして、心は何時しか剣に容り、些かの邪念、雑念、妄念もない。端然と坐し、静かに見入る鍔元から切先、武魂烝烝として、心飽迄清浄に、既にして聖将英傑の心胆に相通ずるものあるを思わしめる。

ああ! 日本刀、この美、この真、何ものかこれに優れる。鞘に納めて瞑目すること数分、吐く息長く、悟るのは、これ日本人たるの大歓喜である。

これやこれ、神国の恩寵、代々の先祖に普く、臣道違わずして今日に到る霊感に他ならぬ。静かに一礼して床の間に置く。払拭され更新された心は、ただまっしぐら、忠誠の一念に突進するを得るのだ。

が、此の日本刀が如何に古き昔から、徹底して磨かれたことか、若し、一点の曇に曖昧の態度を示し、これを拭い去るに丹念の誠がなかったならば、今この民族的大歓喜を伝えた日本刀は存在しなかった筈だ。神聖なる日本刀、夏尚お寒き秋水は何を無言に知ったしたか? 汝! 徹底せよ! 天来の教訓は、かくして吾人の肺腑を貫き透す。

そうだ。吾々は徹底しなくてはならないのだ。徹底しないことが如何に理屈を超越して、我々の憎む処であるかは、吉野朝時代、建武中興の中心であり乍ら利欲に迷って賊臣となった赤松則村に知られるではないか、洞ヶ峠に於ける筒井順慶に知られるではないか、関ヶ原天下分目の戦に於ける金吾中納言小早川秀秋の裏切りで知られるではないか。彼等は千歳の後迄も、卑怯不信背徳漢として指弾せられるのである。こて一に我が国民の性情が不徹底と相容れぬからである。

興亜の聖戦に於いても、銃折れれば剣を振い、剣折れれば腕を振い、腕折れれば足で、足も亦傷けば、その胴体で、肉片一つだにあらば、その肉片、骨の一節迄、敵に叩きつけて戦った壮絶悲絶の話は、我等をして幾度も泣かしめたる事実ではないか。

そうである! 徹底する処に、絶大な力は存在する。徹底する処に、光栄は燦として輝くのである。

世に、柳に飛びつく蛙と云い、風吹く小枝に巣を張る小蜘蛛と云う。これ等の話は、皆、修行の徹底を訓えたものである。小野道風が柳に飛びつく蛙を見て、己の悪筆も修行さえすれば名筆になるに相違いないと悟り、遂には天下の名筆となったのも、これ徹底の心理を感得したからである。

「志あれば道あり」と古人は云った。志あれば道ありと云っても、ただぼんやり志を持ち続けたと云うだけでは、決して道は発見されるものではないのだ。志あれば――と云うのは、志すところに徹底すれば、と云うことである。その志す処を実行したいと希い、それに向って一途まっしぐら、徹底する処に、必ず道はある、完成される道があるものだ、と予告して居るのである。

ここで私は敢て云いたい一事がある。世に足しを知ると云う言葉がある。これが往々にして逆用悪用されて居ることである。足るを知ると云うことは、自己の私、小さき欲念を絶えさせる訓言であるのだ。然るに、それを誤解して、公に奉ずべき自分をも、「私如きものは」と尻込みさせ、法懦になることを云うと為すものがある。これは全く、かかる金言類の誤用であって、これが、どれだけ人間の力の発揮を阻んだかも知れないのである、しかも、それ以上に害毒を流したのは「あきらめの宗教」である。病気は元来「気から」と云うのであるが、しかも一人の医師が、たまたま不治の如き言を洩らすと、周囲があきらめて、それアーメンを称えよう念仏を云えと云うのがある。以ての外のことである。人間は最後の一瞬迄も病と闘うべきである。周囲の者も、それを援護すべきである。それが人の道であり武士道である。然るに以前は「もはや養生費がないから、あきらめてくれ」と云う近親のあることを実際に耳にした。これは金銭のほうが人命より尊しとなるもので、撲滅すべき外来思想の影響である。たとい、その養生費の為に資産は使い果す共、生命を取止め健康を恢復し、一日でも国家に尽せれば、それが何より宜しいのである。資産は働けば生ずるのである。人間は資産の番人ではない筈である。資産は国家の為に尽すを得る便宜のあるものに過ぎないのである。本末を転倒するは以ての外のことだ。病人も周囲も徹底した闘病こそ必要なのである。

此の詳細は後章葉隠の中に述べてあるが、闘えば健康になれるその身を、あきらめて死すると云う馬鹿な話があったものではない。後世の安楽を希うなどと、判りもせぬ後世のことなどを頼りに現実の世界をあきらめて何とすべきであるか、大楠公は「七生報国」と云われた。軍神広瀬中佐も、そうである。いや皇軍の将士は忝くそれであり、銃後の国民も、忝く、それでなくてはならぬ。見よ! 戦場に天晴壮烈なる死を遂げられた人々は、靖国神社に「護国の英霊」として赫奕として活きて居られるではないか。

自分には力がない、自分には金がない、自分には才能がない、だから、あきらめる、そんな意気地なしの人間が一人だって、これからの日本にあってはならない。又、自分には金がある自分は安全だと云って、国家の進展に寄与せず、自己のみの愉安を貪るような酔生夢死の徒も一人だってあってはならない。左様な者の感ずる安全は真の安全ではないのだ。間断なく国家の前途を深憂し、全力を挙げて各々の立場で徹底的に国に奉ずる、其処に始めて絶対の安全があるのだ。これを徹底して、どこ迄も為し遂げる。あらん限りの力を絞って、君国に奉ずると云う一念でなければならない。

父の死は、その霊が子の魂の中に融け込んだのである。母の死は、その魂が子の細胞の中に移り住んだのである。次に来るべきものの爲にのみ死は存在する。種が次々に良い花を咲かせるようなものである。人間の死もいわば発展的解消であり、自分を捨てて他に生くることである。悲愁のあきらめ、弱音のあきらめ、これが日本人にあってはならない。死は永劫に生くるものへの一段階である。

不徹底は抾懦なり

かくの如く、「知足」「あきらめ」を曲解したものは、徹底によって生ずる力を殺すものである。徹底させぬ防碍物である。これは自己反省の具とすべく、決して、抾懦に、躊躇に、不徹底の自己弁護に、断じて用うべきではないのである。

男らしいと云うことも女らしいと云うことも、これは日本男子の気魄に徹底することであり又は、日本女性の床しさに徹底することである。

男らしき武士は「額に矢は立つとも背に矢は立てじ」と、その勇に徹底した。鎌倉権五郎景正は、十六歳の若少の身で、後三年の戦に非常の働きをなし、敵の為にその右眼を射られた。景政は其の矢を折り捨て、其の敵を追って射殺し帰陣して仰臥すると、戦友の三浦平太郎為次が之を見て、足を権五郎の顔にかけて其の矢を抜こうとした。景正は大いに怒って、

「弓箭に当って死ぬのは武士の本望である。足で顔を踏まれるのは武士の恥辱である」と、戦友の親切たりとも、武士の面目に反くものは敢然として拒否し、謝罪させて、改めて腰を折らせ矢を抜き取らせたのである。これなども面目そのものに徹底していたのだ。だからこそ、若年で史上に勇名を遺すことを得た。

又、高倉宮の侍長谷部信連は、

「弓箭取る身の習、仮にも名こそ惜しく候へ、敵を恐れて遁れたりといわれんは、武士たるものの恥辱なり」

と云って、唯一人、宮の内に留まって目覚ましき働きをなし、敵十四五人を斬り伏せ、刀折れたので、今後は赤手敵に向い、遂に六波羅に捕えられ、宮の所在を責問せられると、

「侍たるものが、一度申さじと思い切ったことは、如何なる責に遇うとも云わず」

と、きっぱり「知らぬ!」と一言答えた後は、どんな詰問に遇っても、遂に一語も発しなかったので、平氏も其の剛勇に感じて、遂に許したと伝えられる。

これ等は、云うまいと思う、その意志に徹して居り、その凛烈さが敵の心胆を寒からしめ、讃嘆させたものである。些少の痛苦に、つい洩らすようなものは、それは武士道に反するのである。

研究に於ても然りである。竹中半兵衛重治が、武道研究会を開いた時に、息子が小便に立ったのを見て大いに叱りつけ、

「重治の倅ならば、武道の談話に聞きとれて、居小便を垂れたと云われても、恥ではない。中座をするとは何事じゃ!」

と云ったのは、研究の徹底を示したもので、そうあるべきである。そのうち、折があったら学ぼうなどと云う輩に、勉学が成立する筈はない。思い立ったが吉日である。志すところへ、その場から立ち上がる、それが勉学であり、そして、一度勉学に志せば、それに徹底せずして、会得されるものではないのだ。

徹底する処に力があり、徹底するものに美がある。徹底は真実を掴むからである。前述の徹底した人は、孰れも皆美しいではないか、徹底に依って発せられる美があるからだ。

徹底した生活は、すっきりと割り切れた人生である。人間生きて曖昧模糊たる存在であっては価値はない。ましてや、興亜の日本国民は、その生活態度に、いつも割り切れた純一無二のものがなくてはならない。

割り切れるもの、それは繊維の強靭なものである。植物で云えば竹である。強靭な繊維を有するものは、美しく伸びて、而も力強い。

雑草は如何に時を得顔に蔓っても、冬来りなば、枯れ失せるのである。去り乍ら、雑草の枯れた中に、埋れてあった樹木の幼芽が、溌剌として生きて居ることは、誰しも眼にする処である。毒茸は如何に其の美を絢爛に装っても、人をして眼を反げさせるものだ。しかし、松茸は、その割り切れる繊維を持って床しい香りを放ち、人をして讃嘆愛嗜せしめるのである。

思えば、我々は、毒茸の如き、絢爛に見え乍ら、ぐにゃぐにゃした繊維の文化に、どれ程毒せられて来たか、思うて竦然たるものがあるではないか。

今や、秋の爽快を思わせる松茸の床しさに甦って居る。日本人の特質は松茸の香気であり、その割り切れる強靭な繊維である。質実にして、得も云われぬ美しさ、それである。

「花は桜木人は武士」と云う。これ割り切れた生活の美しさを嘆称した言葉である。桜は咲くべき時に咲き、散るべき時に、何の躊躇もなく散るのである。武士もその通りである。「死すべき時に死せざれば、死にまさる恥あり」とは、武士の心情を吐露したものである。

従って、武士は、理由を要せぬのである。武士道に徹底するのみである。すっきりとして、割り切れて居るのである。日本が古来「言挙げせぬ国」と云うのは、それである。理論を必要とはしないのである。公明正大、大義にのみ生きる国民である。理屈を要せぬのである。

所謂理論づけるのを必要とするものは、多くは、そのものへの弁護である。醜い自己弁護である。弁護を要しない凛然たる正道、云う必要がない美しさ、それが日本国民の姿である。

理屈は不徹底、曖昧模糊なるものにこそ必要である。徹底せる人生、生きて行く道の判然たる日本国民は、それを要しないのは言を俟たない。

日本は神国である。敬神の思想は理屈から生れたものではない。敬神の思想は、皇室への忠誠から生じて居る。だからして、敬神に理屈はない。然るに仏教は、その巧緻な理屈からして発達し得たのである。他の宗教も同様である。

我国の歴史を観ても、此の理屈の優れたことによって、一般的に仏教は信ぜられたが、然しそれだからと云って敬神の念には些かも変りはなかった。敬神の念は厳として存在した。いや時に、その仏教の巧緻なる理論は、返って敬神の念を厚くさせるに役立った。仏教は敬神の念を巧みに利用して其の普及を計ったのではないか。日本国民の偉大な点は敬神に徹底して居るところから生じて居る。最も尊いものは、最も敬すべきものは、理論などこねくり廻したものではなくて、吾人の心霊に、直ちに下るものである。相感応するところのものである。其処に生じて居る千古不磨の尊き道が武士道であるのだ。

武士道は日本国民の性格

即ち武士道は日本国民の性格である。それは国初から今日に通じて、我が神国日本に貫かれたる大動脈である。そして、やがて未来永劫に光輝を発すべき中核精神である。さればこそ、日露戦役大捷後に文学博士重野安繹氏は、声を大にして、「武士道は日本の国体と云う程のものである」と絶叫した。当時、文学博士松本愛重氏も亦、「武士と云う名称は中世より起れる所なりと雖も、武士道は、もと我国尚武の気風より出で、実に日本民族固有の性情なり」と云った通り、武士道の精神は、武士道の名称が存在せぬ以前、既に肇国の当初から発揮されて居たのであって、それが武家時代以後に武士道と通称したに過ぎないのである。それにも拘らず武士道は武士のものであり、武家時代以後に発達したのであるなどとの誤謬を、今尚お持つものありとすれば、それは全く西欧流の観方であって、われとわが国民性を冒涜する不届なる考えである。

海行かば水漬く屍
山行かば草生す屍
大君の方にこそ死なめ
かへりみはせじ

これこそ、武士道の真髄を道破した歌であって、武士道とは、云い換えれば、永遠に変りなき臣道であり、此の臣道を実行するもの、これが真の日本国民と云い得られるのである。だから、武士道は武士のもの、剣を執るもののみの道であってはならないのである。武士道の精神は、農業にも、工業にも、商業にも生かされねばならぬものである。此の武士道精神に生かされてあれば、それは直ちに公益優先である。今更に、公益優先が説かれるのは、嘗て明治維新以後、欧化の風潮に感染したもの、即ち毒茸の滲害する処となったものの間に生じた町人哲学が残存するからである。

この町人哲学は個人主義、自由主義、更に社会主義となって、我が国体と相容れぬものである。この残滓は、どうあっても除去されねばならぬ。これがあっては明朗清哲にして割り切れる日本国民の生活を混濁させるからである。そこでこの残滓を除去する爲に、今更に公益優先が説かれるのである。考えれば武士道的に見て悲しいことである。日本国民として恥ずかしい次第である。

武士道の精神を実行するものが日本魂である。だからして日本魂は不撓不屈である。飽迄徹底である。臣道は此の徹底なくしては行われない。死んでも死なぬと云う精神、一念凝って石に立てる矢となる精神、それが臣道である。大忠臣大楠公の「七生報国」の誓いは、それである。

徹底するには強靭な精神力を必要とする。七転び八起きの精神である。一度倒れて、あきらめるものなどは問題にならないのである。凡ゆる発明は、総ての研討は、失敗に失敗を重ねての上に成就されるものであることは、よく人の知る処である。倒れる度に勇躍するのである。失敗の度毎に奮起するのである。それでこそ徹底することが出来るのである。

山中鹿之助は三日月に祈って「我に七難九厄を與え給え」と云った。

憂きことのなほ此の上に積れかし
限りある身の力試さん

これが日本男子の本懐である。徹底的の鍛錬である。かくしてこそ、徹底の醍醐味は感得されるのである。

女子にしても、そうである。関西に十数度の結婚をして、遂に日本女子として母となる日の幸福を得たものがあった。勿論、女子は嫁しては夫に従い、それに徹底すべきであるが、此の女性は、そう爲したくも行く先々から離縁となった人であった。一度離縁されれば、それで廃物になったかの如くに思い込み、あきらめて一生朽ちてしまうような女性では、日本女性とは云えないのである。何が故に、そうした憂目を見たかを反省して、更に、今度こそ天晴れ日本の女性として母たるの本分を尽したいと努力し励む処に、そして下らぬ悲愁に叩かれて居なかったところに、此の女性の幸福は招かれたのである。

何事も徹底しなければならないのである。そして、徹底するには確かな心の根幹を必要とするのである。即ち、徹底させるものは武士道であり、武士道は又、徹底するものではければ、其の光輝を発せられないのである。かかる因果関係を持つことを忘れてはならない。

そのことを極めて懇切に、徹底的に説いてあるのが「葉隠」であり、「葉隠」の精神を具現したものが「葉隠武士道」なのである。

葉隠の極意は徹底主義

思い起こせば、昭和三年の東方会議は、日本が如何に大陸に処すべきかを決する重大会議であった。その時、参謀本部では研究の結果、三つの案を得たので、これを当時の関東軍司令官(後の武藤信義元帥)に見せたのである。

第一案を見た武藤司令官は、ただ一語、
「甚だ結構です」
と云った。で、第二案を見せると、武藤司令官は、又もや、ただ一語、
「甚だ結構です」
と答えた。続いて第三案を見せた。すると武藤司令官は、相も変わらず、ただ一語、
「甚だ結構です」
と云った。そこで、幹事長は、むっとして突っ込んだ。
「何もかも結構とは何事ですか?」
しかし、武藤司令官は、冷然として答えた。
「どの案も、要は徹底してやるにある、徹底して行えば、それで宜しい、案の長短善悪等は第二の問題であります」
この名答には、思わず呻らせられたと云うことである。

云う迄もなく、武藤信義元帥は、海軍の安保清種大将、武富邦茂少将や陸軍の真崎甚三郎大将、興亜の人柱として壮絶悲烈なる戦死を遂げられた古賀聯隊長や、空閑少佐、爆弾三勇士の一人江下伍長等と共に、佐賀葉隠の流れを汲んだ人であった。

而して、葉隠精神なるものは、此の故武藤元帥の言葉でも知られる通り、飽く迄徹底主義である。

従って葉隠武士道に於ては、忠孝と並び称さないのである。平重盛が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と煩悶した事などは、愚の極みとされている。

忠が即ち孝である。孝以外に何物もないのである。

葉隠は、念仏行者が出で入る呼吸の間にも、仏を忘れることがないようにと、唱名を称えるごとく、出で入る呼吸と共に、「殿様、殿様」と云えと訓えている。

更に、人に忠告するにも、此の徹底主義でなければならぬ事を、説いている。

「人に意見をして疵を直すというは大切の事、大慈悲、御奉公の第一にて候、意見の仕様、大いに骨を折ることなり、人の上の善悪を見出すは安き事なり。それを意見するも安き事なり。大からは、人の好かぬ言い憎き事を言うが親切の様に思い、それを請けねば、力に及ばざる事と云うなり。何の盆にも立たず。人に恥をかかせ、悪口すると同じ事なり。我が胸はらしに云う迄なり。意見と云うは、先ず其の人の請くるか、請けぬかの気をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を兼々信仰ある様に仕なしてより、好きの道などより引き入れ、云い様種々に工夫し、時節を考え、或は文通、或は暇乞などの折か、我が身の上の悪事を申出し、云わずして思い当る様にと、先ずよき処を褒め立て、気を引き立て工夫を碎き、渇く時水飲む様に請合わせ、疵直るが意見なり、殊の外仕にくきものなり。年來の癖なれば、大体にて直らず、我が身にも覚えあり。諸朋輩兼々入魂をし癖を直し、一味同心に御用に立つ所なれば御奉公大慈悲なり。然るに恥を與えては何しに直り申すべきや」とある。

簡単に欠伸のような問題でも、

「同座に若輩の人欠伸仕られ候時、欠伸は見苦しきものなり、欠伸、くさめは、するまじと思えば、一生せぬものなり、気の抜けたる所にて出るなり、不図欠伸出で候はば口を隠すべし、くさめは額を押うると止まるなり、又、酒を飲む衆はあれども、酒盛よくする人はなし、公界物なり気を附くべき事なり。斯様の事共、奉公人の嗜み、若き内に一々仕附度き事なりて、箇条書百ばかり出来申し候。猶々詮議して書き附け候へとなり」

と葉隠の著者は云って居る。するまじと思えば一生せぬものである、ときめつけた所などは、将に面目躍如たるものがある。

葉隠精神は一言を以てすれば、この凡ゆるものに対する徹底主義である。「浪人も七度せねば本物でない」と云って、七転び八起きを説いている。浪人になっても主家を思い続け、八度目に起き上り、帰参の叶うと云うのが、真の武士だと云うのである。

そして、人生は、

「端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。此所に覚え附き候へば、外に忙しき事もなく、求むることもなし。此所の一念を守りて暮すまでなり。皆人、此所を取失い、別に有る様にばかり存じて探促いたし、ここを見附け候人なきものなり。守り詰めて抜けぬ様になることは、功を積まねばなりまじく候。されども、一度たづり附き候へば、常住になくても、最早別の物にてはなし。此の一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事すくなくなる事なり。この一念に忠節備わり候なり」と教えて居る。

まことに現在が凡てである。現在と現在とが重なり重なって、未来を形成するのである。徒らに将来を夢見るな、只今、自分は何をして居るのか、何を考えているのか、これが積もり積って未来となり、一生となるのである。

ある医学者は云った。河豚の毒素は蓄積するのではないかと。この蓄積された毒素が、結局中毒に導くのではないかと。この河豚説には、私は門外漢だから何とも云えないが、人生には、蓄積された毒素で、結局殪れる人が甚だ多いのである。

一つの嘘言は、百の嘘言を生むと云う。そして、結果に於ては、嘘言の害が身に及ぶことは狼と子供の童話にでも、知られることである。反対に、一つの信用が、だんだん蓄積して、その人の未来を輝しくした例は、枚挙に遑がないのである。

端的只今が、一番大切である、と解く葉隠では、生涯は窮局、一瞬に分解出来ると云うのである。思い立ったが吉日と云い、学問を始めるのに年末はないと云い、凡ゆる偶話も、この端的只今の思想を盛って居るのであり、時は金なりも、光陰矢の如しも、皆、その意味の金言たるには相違いないのであるが、しかし、この葉隠の如く、「端的只今の一念より外はこれなく候」と喝破したのは、さすがに、これが永遠に武士道の指導書たるべき価値を実證するものである。

しかも、生涯を端的只今の一念よりなし、と断定するに至っては、何と云う徹底振りであろう。葉隠の精神は、中途半端や、生ぬるさを極端に排撃して居るのである。飽迄、徹底である。

「やり通す!」これが葉隠全部を通じた大動脈である。

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