徳川家光

徳川 家光(とくがわ いえみつ)は江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 – 1651年)である。乳兄弟に稲葉正勝・稲葉正吉・稲葉正利がいる。

祖父・家康と同じ幼名竹千代を与えられた。

15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は、家光のみである。

(ウィキペディアより引用 )

江戸幕府集権制度の確立

元和九年七月、徳川三代将軍の職に就いた時、家光は外様諸大名を招集めて申し渡した。

『我が祖父家康が天下を草創したのは、各々の助力によった。又、父秀忠も各々の同輩であった。だから、各々に対しては客分の礼をとり、参観の砌も叮嚀に品川や千住までも使を出した。しかし、此の我に至っては、生れながらの将軍である。各々も譜代大名と同じく我が家来である。依って、向後は、各々をも他の家来同様に臣遇すべきにより、左様心得られ度く、若し意に満たざるものがあらば、速かに本国に立ち返り、去就を決せよ。』

剛毅果断の気宇言々句々に満ちた家光の言葉に、諸大名達はみな平蜘蛛の如く慴伏して誰一人頭をあげるものはなかった。

戦国時代百年の動揺動乱は、織田、豊臣、徳川の統一を生み、統一は発展して集権となり、その集権は更に家光の代に及んで、不動の制度を確立し、封建的全秩序を完成するに至ったのである。

家光は二代将軍秀忠ひでただの長子で、慶長九年(1604)七月十七日江戸西丸に生れ、幼名を竹千代たけちよと言い、男勝りの才女春日局かすがのつぼねに輔育された。はじめ母達子たつこの愛は弟忠長に厚く、為めに一時その地位を危ぶまれた程だったが、春日局が密かに家康に訴えたので、漸く無事なることを得た。

その器量を知ろうとした家康は、或る時、雨の降っている庭を指し、幼い家光と忠長の二人に、

『出て遊べ。』と、言った。すると、忠長は裾を高々とからげて出たが、家光はからげず、そのまま出た。地面に坐れと言われた時、忠長はいよいよ高くからげたが、家光はそのまま坐った。家康は頷いて竹千代こそ天下を保つべき奴――と呟いたと云う。

元和元年九月、竹千代は十二歳で元服し、従二位大納言に叙任して、家光と名乗った。同時に、家康は謹厚な酒井雅楽頭うたのかみ忠世ただよ、明敏な土井大炊頭おおいのかみ利勝としかつ、剛勇な青山伯耆守ほうきのかみ忠俊をもりとし、各々その長所を傾けて玉成するようにと命じた。従って、初めは寧ろ小心温厚の少年であった家光も、長じては英邁剛毅で濶達かったつ果断、威容備なり、幕府集権の完成に最も適任者である偉材となった。

至れり盡せる統御政策

江戸幕府の制度は、徳川氏がまだ三河時代の小大名こだいみょうであった頃の庄屋仕立しょうやじたてを其の儘に襲用したものに過ぎなかったが、それが組織、名称、形式共に整然として来たのは、家光の世に至ってであった。大老を総理とし、執政官としては五人の老中があり、その下には諸大名の監察に当るものに大目付があり、五人又は六人を以て成る若年寄は将軍に直属して旗本家人を管し、平常の普請や城中の庶務を司り、目付役はその下にあって旗本家人の監察に当る。

全国寺社に関する行政司法を掌るものに寺社奉行があり、諸国の代官を支配し金銀米穀の出納財務に当る勘定奉行、江戸町内を支配する江戸町奉行、その他、地方官の重要なものとしては、京師を守衛し公家こうけ並びに西国大名の監視を任とする京都所司代、大阪城を守る大阪城代、駿府の駿府城代、京都を支配する京都町奉行、大阪の大阪町奉行、更に一般天領には代官があり、特に目星めぼしい地には郡代ぐんだいが置かれていた。そして、これらの重職に起用される者は、殆どすべて徳川譜代の大小名だいしょうみょう旗本に限られていた。

斯くの如く組織化し強力化された中央政治組織を以て内外を固め、更に寛永十二年、前代の其れとは内容形式共に全く一変した『武家諸法度ぶけしょはっと』二十一ヶ條を制定して、その據るべきところを知らしめた家光は、いよいよ峻厳な威風を以て日本六十余州に臨んだ。『武家諸法度』によって制定された諸制度中、最も重視すべきものの一は、参覲交代さんきんこうたい制である。この制度は、慶長十年に藤堂高虎が江戸に妻子を居住させて人質に擬したのが始まりで、徳川氏の鼻息を窺うに急な諸大名の模倣するところとなり、隔年の参覲は概ね諸侯の例となっていたのであるが、これが、制度となり、義務として強制されるようになったのは、この『武家諸法度』制定以来である。

斯うして、外様大名達は東西二班となり、毎年四月を以て交代期とし、譜代大名は六月を交代期とするもの六十九人、八月を交代期とするもの九人、関八州内に領土を有する譜代大名は半箇年交代、要害の城邑を占むる譜代は交互に参覲すること――と定められた。

参覲交代制度施行の結果は、大小名達が江戸に妻子を置いて参覲交代するため、本国に帰ることは恰も守備地・支配地を巡検するの観を呈し、江戸幕府が封建の形式を持しつつ中央集権の実を挙げ得た一原因となり、且つ隔年の江戸住みと道中の往来は、幕府の最も意図したところの、諸大名の巨大な財政的打撃となると共に、また一面、貨幣制度及び流通組織の急速な発展、交通運輸機関の進歩、商業の発達、都市の繁栄へと展開していった。

朝廷をさえも、秀忠のむすめ和子の入内と同時に三宅正勝を御賄頭おんまかないがしら御納戸頭おんなんどがしらとして入れ、更に公家法度こうけはっとを定めて、経済的法制的に抑制しようとした幕府であって見れば、諸大名の統御の如き、ただに諸制度の確立施行のみに止まらず、断々乎たる高圧的態度に出でたのは当然であった。

幕府は仮借なく諸大名の淘汰を実行した。関ヶ原及び大阪の両役の結果、改易に遭ったもの九十二家、五百万石――嗣子が無いか或は幼弱な事を理由として領地を公収されたもの四十六家、四百五十七万石、減封十二家、十六万石――不節制な行動、家中の内訌、殺傷、争訟、城郭の修理、参覲交代の懈怠等を口実とされたもの、改易五十九家、六百四十八万石、減封四家十四万石――これらは徳川初世三代に於ける数字であるが、斯うして沒収された領土は旗本の諸将に分与する一方、全国の枢要の地を選んで将軍直轄となし、巧みに諸藩の間にあって政治上重大な役目を演じるように配置した。その領地は全国土の四分の一に当り約八百万石と称せられたが、この財力が、家康以来蓄蔵されていた金銀と共に、家光の日光廟の造営や、一代十一度の日光社参、寛永二度の上洛等の資となり、又諸大名統御の経済的基礎となったのである。

島原の乱と鎖国

寛永十四年十月、島原の乱が勃発した。天主教は、秀吉のあとを受けた家康が、慶長十九年に禁を厳にして以来、よほど影をひそめていたのであるが、島原半島は、領主有馬晴信ありまはるのぶが有名な吉利支丹大名であった爲め信者が多く、其の巣窟の観があった。有馬の後へ封ぜられた松倉氏の残酷な迫害下にあって、教徒達は悲壮な反抗の炎を燃やしていた。この気運に乗じて『起てッ』と絶叫して教徒の先導に立ったのが、小西行長こにしゆきながの旧臣を中心とする浪人の群であった。続々として断行される諸大名の領土沒収、減封移封等の淘汰は、必然的に武士階級を秩禄から追い、社会に浪人失業者群の激増を来した。島原の乱も吉利支丹宗弾圧を背景とした失業浪人達の、遣るせ無い悲憤の一つの現れであった。

一揆軍の勢力は甚だ強大で、三万八千の兵を以て十万の幕軍に抗すること三ヶ月に及んだ。が、老中松平信綱が出陣して漸く鎮定することを得た。家光は、かつて、

『耶蘇の法は、元来邪法であるとは言っても、人の信ずべき語があればこそ、此の教えに従うものであるから、心しなければならぬ。』と語り、又『これは西洋の教えである。その爲めに我が国の人を一人たりとも罪に行うことは、我国の損である。成るべくならば、我が国人を損じないように、その宗旨を改めるならば改めさせるがよい。』と言ったというが、島原の乱後は、天主教に対する幕府の取締は俄然峻烈となり、徹底的禁教を目指して、寛永十五年五月、五百石以上の大船の建造を禁止し、翌年七月、法令を以て外国船の来航をも禁じた。我が国貿易史上の大事件たる禁教鎖国制度の完成である。が、天主教に無関係のオランダ人と支那人は従来の如く貿易を継続した。

このように幕府は、退嬰的と評される鎖国を断行したが、将軍家光は雄心勃々として対外硬であり、かの明の鄭芝龍及びその子鄭成功が、我が国に使を派して援軍を乞うた際などは、

『此れを拒むことは我が屈辱だ。』と、頑張り、評議数日に及んだが、井伊直孝が固く諫止した爲め、遂に、策していた支那計略を断念したと言われている。鎖国策は、一面国民の海外雄飛の意気を消失させ、諸外国との接触を絶ち、世界文明の進軍から長く邦人を取り残した等々の芳しからぬ烙印を史上に焼きつけたのは事実であるが、然し又多面、外教を利用する内乱等から免れ、貿易による金銀の流出を軽減と同時に、必要上から生絲絹織物の発達を促し、東洋文化を真に同化し尽す好機を造り、明治時代に西洋文明を採用して十分に効果を挙げ得る素地を形成する等の利益好影響も大きかった。

英名濶達の君主

幕府草創の後をうけ、多事多端な近世社会完成期に将軍として世に臨み、よく諸制度を改革整備し、盛んに経倫を行って、徳川三百年の泰平の礎を固めた家光は、固より英名濶達の君主であった。

勤倹を令しては、千代田城内の華飾を除かせ、文武を精励しては、勘気を蒙っていた阿部忠秋が隅田川の濁流を乗り切るのを眺めて、これを許して老中にまで引立てた。又、彼は頗る下情に通じ、訴訟のことなどに非常に心を用いて、老中等にも『下々にも解り易い言葉を使って訊問せよ。』と命じ、或る時は、評定所から登城した若年寄が『聊かの金銀の訴えでございます。』と語るのを聞いて、『天下の刑法を司る者が聊かとは何事だ。訴えた者の気持ちになって裁いてやってこそ名判官じゃ。』と叱りつけた。こうして彼は寛永の治として後世に仰がれる燦々たる治績を残しつつ、慶安四年(1651)四月廿日四十八歳を以て薨じた。遺骸は日光に葬られ、朝廷からは大猷院殿と賜い、正一位を追贈せられた。

[底本]
菊池寛 監修 ほか『日本英雄伝』第7巻,非凡閣,昭11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1222367 (参照 2024-03-16)

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