ペルリ提督日本遠征記 第一編 日本遠征艦隊の巻

原文書名:Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy, by order of the Government of the United States.

アメリカ合衆国の海軍軍人。
1794年4月10日 – 1858年3月4日

1852年11月に、東インド艦隊司令長官に就任、日本を捕鯨船の寄港地とするため交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航。

日本開国の主目的は、日本との通商、カリフォルニア・中国(当時・清)間の太平洋航路での寄港地の構築、難破した捕鯨船員の扱いの改善などであったが、近年ではキリスト教の宣教活動に通じる「明白な神意(Manifest Destiny)」による信念も有力な考え方となっている。

1819年にはニューヨーク市にてフリーメイソンに加入した。

ウィキペディアより引用

遠征艦隊派遣の目的

全ての点において、日本帝国が心ある世界の人士から特別の興味を以て注目されしは久しい以前よりの事で、殊にこの著名な国が不思議にも最近二世紀間鎖国政策を執り、外国との交通を断ちて自ら進んで国を鎖そうとするに至りて、欧米人の興味は一段と高まり、好奇心はほとんどその絶頂に達し、隨って各方面の熱心家は我こそはこの絶東の宝庫を開いて、今日までこの自求的孤立国について知られている僅かな知識に、更に新たなるものを加えようと躍起りだした。

企ては既に幾度か試みられ、葡萄牙、西班牙、和蘭、英吉利、仏蘭西、魯西亜等の諸国は競うて日本と商業上の関係を開かんと努めた。就中、葡西二国は巧みに成功して、両々相並んでその位置を保っていたが、やがて葡萄牙人は放逐せられ、次いで英吉利人も亦自ら日本を見棄てて去ったので、基督教国民としては、唯和蘭人のみが支那人とともに長崎の出島で通商貿易を許されていた。

しかし和蘭人はこの特権のためには、貿易上の利益くらいでは到底償うことのできない国民的屈辱にも甘んじ、人身の監束をも忍び、出島より外には一歩も踏み出すことができなかった。

極めて最近まで日本に関した知識は、もちろんそこには制限はあるが、全く和蘭人の賜物で、ケンツェル、サンベルグ、チッシン、ドーフ、フィッシャー、メーラン、シーボルトなどいう出島の和蘭商館に縁故のある人たちが、わずか一年一度の江戸参上の途上で、監視の眼をぬすんで書いた記録に過ぎず、隨って極めて不十分なものであった。

右のような有様で、世界の文明国は日本については全く何事も判っていなかったとは言うことができないが、知れておる点より知れておらぬ点がはるかに多いのは事実で、謂わば日本が今日までこうしてどこの国からも手を着けられずにいたのは、世界の新進国たる我々亜米利加人が来て、奇怪なる日本国民が自ら求めて閉籠もらんとする鎖国の牆壁を破壊して、和親通商の条約を結び、日本を世界の商業国民の間に紹介する先達となる為に保存されていたので、合衆国はまたその適任者として恥ずかしくないのである。

我々のアメリカ大陸がコロンブスに発見されたのは(1492年)偶然のことで、コロンブスの元来の素志は、1295年に亜細亜の長い滞在から伊太利に帰国したマルコポローによりて初めてヂパング(Zipangu)の名で欧州人に紹介された日本に至るにあったので、彼が初めて今の南米キューバ島に上陸した時は、一図に待ち焦がれた日本に着いたとばかり思ったのである。

こんなわけで、運命とでもいおうか、コロンブスは自身日本を見出して基督教国に紹介することができなかった。されば、彼の行く手を遮り、彼によりて発見された新大陸に崛起した新興の米国民たる者は、自ら進んで日本と欧米諸国との自由交通を開く鍵となり、日本を欧羅巴文明の勢力内に引き入れ以て新大陸の父たるコロンブスの宿望を果たす義務があるのである。

加之、1846年に米国は墨西哥と干弋を交えて、その結果カリフォルニア州が米国に属する事となった。その以前、米国の商船が支那、印度地方に行くには、喜望峰を迂回して三四箇月の日数を費やしたが、今カリフォルニア州から太平洋を越えて彼の方面に赴くことにすれば、航海の日数が非常に減縮するわけである。

然のみならず、当時丁度蒸気船が世に現れてきたので、これに乗って太平洋を越え、支那、印度地方へ往く事とせば、航海の日数が以前に比して殆ど四分の一即ち一箇月前後も減じ、亜米利加の商売のためには非常な便利を得る事になる。

併しながら蒸気船の航海には、是非とも途中において石炭を積み込まねばならぬ。然るに日本は亜米利加と支那、印度との丁度真中にある国であるから、米国の商船が日本において石炭を搭載することを得れば、米国の商売のため非常な利益となるし、且つ日本は鎖国主義を執るというものの、和蘭人には通商を許しておるのであるから、他の外国にのみこれを断るという理由はない、是非とも日本と和親通商条約を結ぶ必要があるという考えが上下の別なく、米国人一般の頭に浮かんで、忽ち一問題となったのである。

使命はペルリ提督に下る

当時、墨西哥戦争で非常に名声を揚げ、大いに人望を博したペルリ提督は、なかなかの学者で、一般の人々と等しく、同僚などと共に右の問題に心を傾け、その成功を疑わなかったのである。

ペルリ提督は、日本国民が自ら進んで国を鎖して外国との交通を絶つには、そこに何か深い理由があるに違いない、それには先ず第一に日本の歴史を調べてみるに限ると考え、日本に関した書物という書物は悉く渉猟した。

その結果、日本の鎖国主義は決して日本人本来の希望ではなく、実は日本人の性格、気質に全く反したものである事を発見した。

同時にまた提督は、欧州の諸国がこの鎖国の牆壁を打破しようと幾度か繰り返したその努力の跡を詳しく調べて、なるほど失敗するのも無理がないと思わるる原因を見出したのである。

即ち各国民は我先に日本と交通の特権を得ようとて、相互に排陥したり、妨害したり、また使節の中には、自分の希望を無理無体にも通そうとて、勇敢なる日本人を威嚇するなど、随分傲慢不遜な振舞をなした者もあった。

甚だしきに至っては、屈辱と名誉との何物なるかを善く知り、正義と親切との上に立っている日本人の性格を見損うて、その面目を潰したり、或は不正の事すら敢えてした者がある。

例えば葡萄牙は島原乱に賊徒に加勢し、英吉利の海軍士官は日本の会場で慮外な乱暴を働いた。また魯西亜は日本の領土たる北海の島嶼を占領し、盛んに黒龍江口の防備を堅めてますますその野心を疑わしめたばかりでなく、実際日本皇帝が云った通り、日本を窺っていた。

こんな訳で、日本はますます西洋諸国を蛇蝎のごとく嫌忌するようになり、ひとり和蘭人にのみは二百餘年間通商を許したというものの、まるで囚人同様な取扱をしていたのである。

ところが、亜米利加合衆国は以上の諸国とはその趣きを異にし、未だ嘗て日本人に不快な連想を惹起させるような交渉もなかった。ただ一度修好の目的で、ピッドルという人を司令官として二隻の軍艦を派遣したことがあるが、わずか十日内外日本に碇泊していただけで、日本人の希望通りにそのまま帰ってしまった。

そこでペルリ提督は、種々考察を廻した後、日本と商業上の関係を開くには、亜米利加は右に述べたような色々の事情からして、非常に好都合であると信じた。そして提督は、この問題が世間で囂しくなって、遠征艦隊派遣の必要が唱道せらる余程以前から、自分の所信を海軍の同僚や、政府の高官、民間の有力家などに洩らしていた。

もちろん提督と同意見の人は他にもいたし、また政府部内にもあったので、政府は当時インドに駐在した米国艦隊の司令官アウリックに命じて日本に赴かしめ、その結果の報告をばブレブル号のグライン艦長から徴してみると、艦長は日本と修好を開くの重要なることを盛んに説き立てた。

こうして日本遠征艦隊派遣の気運は大いに熟してきたが、断然これが結構せらるるに至ったのはペルリ提督の熱誠なる主張の結果で、提督はアウリックの召喚せらるると共に、合衆国政府に向って、日本遠征艦隊派遣を正式に建議した。

大統領ミラード・フィルモアは提督が着実にして思慮に富む人物なるを知り、この人を特命全権公使として日本に派遣したならば、必ず事を成就するであろうとの考えを起し、早速この建議を容れて、彼を特命全権公使に任じ、日本と和親通商を開く平和的使命を授け、一艦隊を率いて日本に赴かしむる事に決定したのである。

アメリカ合衆国第13代大統領
任期:1850年7月9日 – 1853年3月4日

フィルモアは米墨戦争の間に併合された領土に奴隷制度を導入しないという提案に反対し(南部諸州を宥めるため)1850年協定を支持し、同協定に署名。その中には逃亡奴隷法(ブラッドハウンド法)も含まれた。インディアンに対しては徹底排除の方針を採り、1851年には「第一次ララミー砦条約」を締結させ、ミズーリ川以西の多数のインディアン部族からその領土を奪った。

外交政策においては日本との貿易を進め、ハワイを併合しようとするナポレオン3世と衝突、フランスやイギリスと共にキューバに侵入しようとしたナルシソ・ロペスの動きに対抗した。大統領職後はノーナッシング・ムーブメントに加わり、南北戦争の間にはリンカーン大統領に反対、レコンストラクションの期間にはジョンソン大統領を支持。

ウィキペディアより引用

遠征艦隊派遣の編成

ペルリ提督はこの使命を受けるとともに、早速艦隊の編制に取り掛かった。而して墨西哥戦争中のペルリ提督の最愛の旗艦であったミシシッピー号を筆頭とし、同じく蒸気船のプリンストン号及びアレガニー号、それにヴェルモント号、小軍艦(おそらくSloop-of-warのことだと思われる)のヴァンダリア号及びマセドニアン号もその撰に当たり、この外、既に東印度に滞在中の蒸気船サスクハナ号、小軍艦のサラトガ及びプリマスの二艦を武装運送船サップライ号レキシングトン号、サウサンプトン号などもまた遠征艦隊に加わることに定まった。

大統領フィルモアをはじめ、国務卿エベレット、海軍卿ケネデー以下、内閣の諸卿もこの計画に対しては非常に賛同を表したので、艦隊の準備は思うままに整頓することが出来、ペルリ提督は艦隊の司令長官と同時に特命全権公使という、海軍並びに外交に関して異常なる権力を委ねられる事になった。

提督が海軍省から受けた遠征の任務は東印度、支那海及び日本という広大なる範囲に亙る航海及び測量にあったが、その大目的は日本と和親を結び、太平洋を航海する我が蒸気船の為に便宜なる地点に永久的の石炭貯蔵所を設定するにあったのである。

遠征艦隊はできるだけ早く出発すべしとの命令であったが、各艦の準備に非常に手落ちがあった為、延引に延引を重ね、その為世間からは件の計画は中止になったのではないかと想像されたくらいで、プリンストン号の如きは準備に取り掛かってから悉皆完成したという報告のあるまでに九箇月も要っておるのに、試運転をしてみると、機関が不完全で全く役に立たぬ事が分った有様である。

こんなことで、準備に一年餘を費やし、プリンストン号の代わりには蒸気船のポーハタン号が艦隊に加わることになった。

提督がプリンストン号の修繕を待っている間に、セントローレンス湾で英米両国の漁業に関して粉擾が起り、俄に軍艦派遣の必要が生じたので提督は政府の命によってミシシッピー号を率いてそこに赴き、紛擾を解決して両国漁民の権利を確定し、満足に自分の任務を果たした。

而して紐育に帰るまでには艦隊の準備が悉皆整っていて、早速遣東の使命に出で立つことが出来るようにと心に念じつつ紐育に帰ってきたのである。

合衆国が遠征艦隊を日本へ派遣するという噂がぱっと世間に弘まると、軍艦の下廻りにでもいいから使ってくれとて、履歴書を添えて申込む者が世界の各地方から引きも切らなかった。また合衆国はいうに及ばず、欧羅巴の文学者、科学者、旅行家なども切りに一行に加わらん事を求めて来たが、提督は断然これを拒絶したのである。

斯く提督が軍人以外の人を断固と謝絶した理由は種々あるが、とにかく今回委任された任務は普通の場合とは異なり、大いに慎重な綿密な取扱を要するもので、これを巧みに仕遂げるには、提督が始終絶対的の権力を握って、厳格なる規律と訓練とを保って行くが最も肝要である。

ところが、軍人以外の人々に向っては、窮屈な艦内にあって厳重な軍律に一々服従することを望むことができない。これがその理由の一つである。

なおまた軍艦にはそれぞれ用務の将校や士卒がいっぱい乗り込んでいるので、こういう学者たちを容れる場所もない、それによしや乗り込んだとしても、さて珍しいものがあって探求してみたいと思ったところで自由勝手にならないので非常に落胆するのは今から見透いていおるし、また彼らが上陸した場合に、万一彼らの不注意やその他のことから人民と衝突の起るような場合がありはせぬかという杞憂も提督にはあった。

然し以上に挙げたよりも最も重大なる理由は、日本遠征の目的は学問上ではなくて、海軍並びに外交上にあるという事実に帰するのである。

また一方においては、提督は全て部下の者に艦隊の行動、内部の動静等に関した事柄は一切新聞雑誌等の刊行物に通知するを厳禁し、故里、知人への通信も以上の記事を避けることを命じた。その上遠征艦隊に加わった人々の日記、記録類は海軍省から公にしても宜しいという許可のあるまでは政府の物として取り扱わるる事となった。

畢竟こういう厳重な取締りをしたのは、我々の使命を中途で転覆するような消息が他国に洩るるのを防遏する為で、現に魯西亜の如きは、合衆国が日本に艦隊を派遣するのを探知するや否や、早速軍艦を日本に送ったような有様である。

ところが学者を感慨に乗り込ませた場合に、知人や家族への通信をどう取り締まったらよかろうか、艦員に対するように一々手紙に容喙するわけにもゆかないので、提督は初めからそういう面倒の起るのを避けた次第で、それにまた部下の士官に科学的の観察や、研究の趣味を起させるには実に好機会で、縦い彼らには哲学的の十分な考察は出来ないにせよ、見聞の事実を修行になるわけである。

のにならず我士官の間には学問にかけても評判の者がたくさんあるし、現に陸軍の将校中には多くの学者がおる事であるから、海軍部内にもそういう人のいない筈はないと提督は考えた。以上のような種々の理由で提督は学者の動向を謝絶したのである。

セント・ローレンス湾から帰ってみると、まだ軍艦の準備はできていなかったので、提督はミシシッピー号で紐育を立ってアナポリスに向った。そして軍艦の準備が出来るまで待っていた日には、この上なお5,6箇月も延ばさなければならぬから提督は海軍省の許可を得、残した軍艦はできるだけ早く準備を整えて後から来るようにとの約束で、断然ミシシッピー号で出発することに決心した。

ミシシッピー号がアナポリスを解纜する時には、大統領、海軍卿その他知名の紳士淑女が軍艦に訪ねて来て、提督並びに部下に決別の意を表した。やがてミシシッピー号はプリンストン号と相並んでチサピーク湾を下って行ったが、その時プリンストン号の航海に堪えぬ事が発見せられたので、ノルフォークの鎮守府に到着する否や、丁度東印度から帰航したポーハタン号がすぐこれに代わる事になった。

代わる事は代わったが、ポーハタンは色々準備の必要もあったので、すぐ出帆する事は出来なかった。といって、この上日延べをするのは最早提督の堪うる所でないし、それに後から来さえすれば、別に同艦を待っている必要もなかったので、石炭、糧食はマディラ、喜望峰、新嘉坡等で補供する計画を以て、1852年の11月24日、提督はミシシッピー号のみにてノルフォークの鎮守府を解纜して、日本を指して使命の途に上ったのである。

ミシシッピー号の航路

ミシシッピー号は(訳註1,700噸、大日本古文書幕末関係文書ニ拠ル以下同ジ)大きな三本檣の付いた外車の蒸気船で、速力は七八浬位、石炭は一週間分より多く積む事が出来ない故、順風の時には帆を利用して石炭の無くなるのを助ける方針を取った。

ノルフォーク鎮守府を出発してやがてチサピークの岬を離れると、十日間というもの南風が強く吹き続けたので、大洋は宛然煮え返る許りに荒れ立った。ミシシッピー号は山なす激浪怒涛を物ともせず、十二の汽罐の内八つに石炭を焼き立て、平均七浬位の速力で進航した。

而してノルフォークを立ってから十九日目の十二月十二日の暗々にマデイラ島のファンカール湾に初めて錨を卸したのである。

ここに碇泊している内、提督は深くこの度の使命の重大なるを思い、それと共に自分の取るべき態度方針を一応本国政府に明らかにしておく必要があると考えたので、十一月十四日の日附で一通の意見書を認めて海軍卿の許に送った。

その大意を掻摘んでみると、

この度の日本遠征の結果に就きては、十分の成算はあるが彼の奇怪なる日本政府を促して、直に実際的の協約を結ぶというような手早い成功は覚束ない。然し結局この大目的の成就する事だけは堅く信じて疑わない所である。

先ず第一に、捕鯨船、その他の船舶の避難所及び糧食薪炭等の需要品補給の港湾を一箇所なり、又それ以上得るのは容易い事と思われる。萬一日本政府が本土に於て許可するを肯ぜず、猶兵力に訴えてもという頑強な態度に出た場合には、日本の南方にて、良港を控えて、飲水糧食を得る便のある島嶼を一二箇所得て、軍艦の集合所を作っておいて、温和と親切とを以て徐に人民を宥和し、漸次に交際を開くように仕向ける考えである。

次に、目下日清両国にて主権の論争中なる琉球にても、重な港を開かしむる覚悟である。これ唯公徳上正統なる許でなく、世界の公用から見ても至当な事である。琉球は今は薩摩藩の下にあって、人民は過酷なる圧制に苦しんでいるから、彼等に対して正義と親切とを以てしたならば、必ず我々に信服するようになり、日本政府もまた我合衆国の害意なきを知って、我を友邦と認るに至るであろう。

斯の如くして避難港が出来、船舶が数多輻湊する場合には、勢食料品の需要が多くなり、隨ってその土地の果実蔬菜などの栽培を奨励する必要がある。この目的で多少種子類を用意してきたが、猶農具類等も後から送附して下さらば甚だ仕合せである。

また一方和蘭の陰謀に対する手段としては、各国の国勢、殊に我合衆国の富強なる事を明らかに日本に知らしむ事は最も良策と信じたので、我国の精細なる統計表と説明とを挙げたる物を豫め印刷して容易したから、是で和蘭の騙詐も直ぐ暴露するであろう。

港が開けて、石炭糧食等に不自由なく、土地の人民の労働や品物には相当の價を拂うれど、総て彼等に接するに公平無私の態度を以て、彼等と親密な交際を通じた上でこそ、初めて日本政府をして我真意を知らしむ事が出来るのである。

兎に角、カリホルニヤ支那間を往復する船舶は中途に安全なる港を得る事となり、同時に時日の経つに伴って、日本をして我合衆国の求むる交際の目的は全く平和的のものであるという事を善く了解せしむるを得るは疑わない。

海上権に就き、我大敵となる英国が東方に有する占領地と、その防備ある港湾の着々たる増加とを見る時、我国にてはまた敏捷の挙に出る必要があると思う。翻って世界の地図を繙けば、東印度並びに支那海殊に支那海に於ける重要なる地点は英吉利の既に占むる所となって了った。

幸い日本及び太平洋上の島嶼は未だ英国の手に触れられずに残っている許でなく、その内のあるものは商業の要路に当たり、合衆国に取って重要なる地点となるのであるから、今こそ自ら進んで多くの避難港を得るに一刻も猶豫すべき自機でない。それ故ポーハタン及びその他の軍艦を大至急後から派遣して貰いたい。

以上当官はこの蕪雑にして略儀なる書信を以て、世界を通じて非常の注意を促せる問題に就き卑見を陳述いたしました。而して当官は本省が拙案を承認せらるべき事を信じている次第である。云々。

斯ういう手紙を提督は便箋に托して本国に送り、糧食石炭、その他の須要品を積込んで十二月の十五日に錨を引揚げた。

その時提督の考えでは、北東の貿易風を利用しどこへも寄らず真直に喜望峰まで帆走するつもりであったところ、件の貿易風は常よりは、遥か北方で停って、南東の貿易風がこれに代わっていた。ここで石炭補充のため、余儀なくセントヘレナ島に寄港すべく進路を向けた。

セントヘレナ島のゼームスタウンに着いたのは、翌1853年の一月十日の正午であった。ここはナポレオン終焉の地として名高いこととて、艦隊の士官水兵は我先にロングウッドに英雄の遺跡を見物に出掛けた。

用意のために石炭糧食を積込み、十一日の午後六時錨を抜いて、喜望峰に着いたのは同月の二十四日、またもやここでも糧食薪炭等を積込み二月三日に出発した。

それからモリシウス(二月十八日着同二日発)、錫蘭(三月十日着同十五日発)、新嘉坡(三月二十四日着同二十九日発)に寄港し、到るところ石炭糧食の補充を得て四月七日の日没頃に香港に着いた。

するとここにはプリマウス号(千五百噸)、サラトガ号(九百噸)の帆前船二艘と運送船サップライ号(六百五十噸)が碇泊していて、ミシシッピー号に対って祝砲を発ったので、ミシシッピー号からも挨拶の大砲を発った。

ミシシッピー号はしばらく香港に滞在していたが、やがてここを立って澳門に寄港し、さらに廣東に赴き、再び澳門に引帰して四月二十八日の夕方サラトガ号をば艦隊の通訳たるウィリアムス博士を待ち受けるためにここに残しておいて上海に向った。

而して上海に着いたのは五月の四日であった。ここにて旗艦をば碇泊中の蒸気船サスクハナ号(二千五百噸)に移し、愈々琉球を経て日本に赴く準備に取り掛かったのである。斯くてこの月の二十三日午後一時、サスクハナ号はサップライ号を曳いたミシシッピー号と同じくそこに碇泊していたカプリス号(二百六十四噸)と都合四艘で琉球の那覇を指して出発した。

[底本]
ペルリ 著 ほか『ペルリ提督日本遠征記』,大同館,1912.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/992335 (参照 2024-03-15)

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