解説日本文化史 改訂増補『国民・国家の成立』

日本民族

日本民族の成立は今日なお学会の迷宮である。それが単一な人種から成るものでなく、多くの異種族の混成であることは疑いないが、その異同・系統・来住の前後については異説区々まちまちで、帰する所を知らない状態である。されば今は、比較的穏当と思われる説に基づき、著者の所見の大要を記すに止める。

古伝説と異種族

日本書紀・古事記・風土記等に伝える古伝説によれば、大和民族以外に蝦夷えぞ土蜘蛛つちぐも国栖くず熊襲くまそ隼人はやと等の名が伝えられて居る。併しこれ等が悉く大和民族と種族を異にするものであるか、又その各々も互いに別の種族であるか、同種の異名であるか明でない。この中、蝦夷が大和民族と別種であり、今日のアイヌの祖先で、大和民族渡来以前に大八州の地を占めていた先住民族であることは、多くの学者の一致する所であるが、これにも異説は少なくない。古くは我国の石器時代の先住民族はアイヌでなくしてコロボックルであるとの説もあったし、近くはアイヌも大和民族も同種族の分化したものに過ぎぬとの説もある。併し現在の史料では、やはり我先住民族を大和民族と別種のアイヌとするのが穏当であろう。今日貝塚等の石器時代遺跡から発見せられる土器中、渦巻様の曲線模様や、縄紋のついたものは、彼等の遺したものと察せられる。此種の土器には彩色したものもあり、その伴出物には各種の石器や、角器・骨器・牙器・貝器もあり、又土偶をも見出す。土器は飲食用が主であり、石器・角器・骨器・牙器等は多く漁獲具・武具として利用せられ、土偶は宗教的崇拝物であったと思われる。

この蝦夷がアイヌと呼ばれるに至った言葉の転化は、蝦夷の音、カイに敬称のナを附けて、カイナと呼んだのが、アイノ又はアイヌと変じたものであろう。蝦夷は毛人とも記され、その国を日高見と称し、勇敢で文身ぶんしんの風俗を有し、容易に大和朝廷に服しなかったが、屡々征討鎮撫の結果、平安時代の初期に及んで、遂にその巣窟を覆されるに至った。この間帰服したもの、或は捕えられたものは、屡々これを内地に移し、或はこれに一日二把の糧を給し、時には朝廷に入謁見せしめ、又は官位を授け等すると共に、東北地方には諸国の人民や浪人を移住せしめて、蝦夷の同化に努めたため、後には全くその痕跡を失うに至ったのである。

土蜘蛛

熊襲と隼人は九州に居た種族で、両者は時代によりその名を異にした異名同種に過ぎない。隼人は彦火々出見尊ひこほほでみのみことの御兄火闌降命ほすそりのみことを祖先とする伝もあるが、固よりあらゆる国民を皇室から分けたものとせんとする思想上の産物に過ぎぬ、それが南洋系統であるか、大和民族と同種であるかは、異説があるが、主として南洋系説は風俗から来、大和系説は言語から来て居る。何れとも容易に決し難いが、先ず幼くして別れた大和民族の兄弟と見て差支あるまい。黥面げいめん文身の風俗で、性質の剽悍であったが、蝦夷に先立って、奈良時代には全く帰服し、その地方に班田も行わるるに至った。同化も蝦夷よりは早く、古くから朝廷の宮門を守る兵士に用いられ、又犬吠いぬぼえと称する一種の歌舞もその特技とした。

土蜘蛛は九州にも、東国にも居り、国栖は大和に居たが、これは特定の人種ではなく大体は大和民族の同系統で、早く分かれた、分化の劣ったものに過ぎまい。国栖も朝廷で一種の歌舞を演じたことは隼人と同様であった。

大和民族

これ等の異種族を同化して我国の建国者となった大和民族も、その人種系統も、その発祥地も、我国へ来た経路も明でない。古くは神代の物語を我民族の由来を語るものとし、高天原をその発祥地、天孫降臨をその渡来と考えたが、これは後に説く如く、単に国民の思想信仰を示す神話に過ぎないから、此問題を説く鍵とはならぬ。唯これによって我国民はその由来を後世全く記憶しない程古い時代、分化の幼稚な時代に渡来したことを示すに過ぎぬ。

言語は人種の系統を決定する上に、最有力な根拠の一つであるが、日本語は周囲の諸民族の言語と著しい相違があって、如何なる言語の系統に属するかが不明であるから、これ亦人種を決定するの用をなさぬ。而してこのことは言語の発達の極めて幼稚な時代にこの地に渡来したことを示すもので、渡来の古い證據たることは前者と同様である。

更に遺蹟・遺物に眼を転ずると、石器時代遺蹟中、前のアイヌ式土器と形式を異にした土器を出す所があって、直線・円・重円等の幾何学的紋様を有し、後の古墳の出土品と系統を同じくするものである。この種の土器は最初東京市本郷区弥生町で発見せられたから、これを弥生式土器と呼んで居る。これによると後に古墳を営んだ大和民族は、既に石器時代からこの大八州に来て居たことが明で、前の神話や言語の示す所と全く一致するを見るのである。唯この種の土器を出す遺蹟には銅や稀には鉄を混ずることがあるから、我大和民族はこの地に於て石器から金属器に漸く進んで行ったのである。

されば今アジアの人種を南北に分ければ、我国民は言語等から見て北方ウラル・アルタイ族であることは信ずべきであろう。ウラル・アルタイ族は、蒙古・トルコ・ツングース等の北狄で、実行力には富むが分化の発達は頗る遅れて居たことは免れない。ウラル・アルタイ族が分化の著しくない間にこの大八州に渡来し、未開の状態が久しく継続した為め、大陸の平野で育った他のウラル・アルタイ族とは頗る趣を異にして南方種族に近い傾も起り、又国内の地方的分化も生じて、異種族の如く見られるものも出来たのであろう。

帰化人

我大和民族がこの大八州の地に建国し、国家の成立した後に来り加わったものも頗る多かった。一国より他国への人口の移動は、密度の高い所から低い所へ向うこと水に異ならぬが、当時支那・朝鮮から我国へ帰化したものの多かったのは、我国が人口が稀薄で天然に恵まれ平和が続いて居たことと、外来人を卑み排斥することのなかったこと、彼土では屡々国家の滅亡、外民族の圧迫、国内の戦乱・飢饉等の厄難の多かったこと等がその原因であったと思われる。応神天皇の御代に秦の始皇帝十二世の孫と称する融通王即弓月君ゆづきのきみが秦人百二十縣、七千五十三戸を率いて投帰したといい、その後雄略天皇の御代に秦人の他の豪族に劫掠せられて離散したものを集めて、弓月君の後である酒君さけのきみに支配せしめられた時にも、その数九十二部一万八千六百七十人あったという。

又応神天皇の御代に後漢の霊帝の曾孫という阿知使主あちのおみもその子都加使主つかのおみと共に漢人十七縣を伴って帰化し、雄略天皇の御代には魏の文帝の後と称する安貴君あきのきみが四部の民と共に来朝したという。これ等はその一例に過ぎないが、その他にも数千人、数百人の一時に帰化したことは決して珍しくなく、当時我国の人口の少なかったことを考えれば、その影響は頗る大きかったと言わねばならぬ。

例えば嵯峨天皇の御代に都及び畿内の主なる家々の系譜を集められた新撰姓氏録を見ても、皇別三百五十七、神別四百五十九、併せて八百六に対し、帰化人たる蕃別は三百七十四に達し、三割にも及ぶが、河内の如きは蕃別が四割を占めて居る。これを国分にすると支那三、百済二、高麗・新羅合わせて一位の比である。畿内地方は比較的帰化人が多かったとも見られるが、東国その他へも数十人乃至数千人の帰化人を分置したことは、屡々国史に散見する所で、武蔵の高麗郡の如く、帰化人で郡を成した所もある位だから、地方に於ける帰化人も決して少なくなかったであろう。

帰化人と文化

これを蕃別と称したのは、支那で外民族を東夷西戎とういせいじゅう南蛮北狄なんばんほくてき等と称した風によるもので、後の令で、外客を取扱う所を元蕃寮げんばりょうと呼ぶも同様であるが、事実は当時の支那・朝鮮は共に我国より文化の程度が高かったから、文筆のことを初め、各種の技芸の彼等によって伝えられたものは頗る多く、我国の文化の発達を助けたことは多大であった。阿直岐あちきの後が阿直岐ふひと、応仁の後が書首ふみのおびととして文事に貢献し、秦人・漢人がはた氏・あや氏として養蚕・機織に当たり、且つ文筆を利用して財務に関係し、安貴公あんきこうの後が倭画師やまとのえのしとなったを初め、摂津の伊名部いなべ工人たくみ(造船)・難波の薬師も陶部すえべ鞍部くらべ画部えかきべ・錦部も、皆帰化人の後である。聖徳太子の隋に遣された留学生が殆ど皆漢人であるのを見ても、帰化人の文化上の貢献の大であったことは知られよう。

民族の複雑とその影響

かく大和民族以外にこの土に住した異種族もあり、後に帰化したものも多かったが、我大和民族はこれ等を全く同化融合して、遂に何等の痕跡をも留めず、異種族の後のものも、自ら異種族たる記憶を全然消失するに至った。由来国民の由緒が純一であれば統一団結に便であるが、複雑であれば、種々の文化要素が集って、文化の開発を助け、且つ異種族間の混血は自然身心の発達を健全ならしめ、活気横溢せる国家を作る利があるもので、複雑の長所を発揮したものとしては、古代ギリシャ・ローマや、近世のイギリス・北アメリカ合衆国等がその適例であろう。イギリスの民族の複雑は、国旗の図様からでも察せられるが、合衆国の如きも固より単なるイギリス人の植民地ではなく、アフリカから奴隷として輸入せられた黒人の外、ロシア・ドイツ・イタリイの移民も多く、支那・日本・ヒリッピンから行ったものも少なくなかったのである。我国はこの複雑な利を占めた上、国が島国であり大和民族の同化力の強かったことは統一団結を乱されることなく、謂わば単複両者の利を併せ有するの幸運に恵まれた訳であった。

国民性 自然性 実際性

我国民が天然に恵まれ、外民族の圧迫や、悪政の虐げにも苦しめられず、平和な生活を続けたことは、その国民の性質を素直な自然な傾向を帯ばしむるに至った。この自然性こそ我国民性の根幹である。

直き心は形式や理論でなければ肯わぬ程頑なな心を持たぬから、非形式性、即実際性となり、非理論性、即実践性を現じた。実際性は政治に於ては法則の形式の整備を求めないことに見られ、法則の形式的整備は唐の律令を伝えた奈良時代前後と、西洋法制を採用した明治時代以後のみで、その他の時代は法典の発布も少く、あっても従来の慣例を集めたに過ぎず、官名の如きも極めて実際的であった。文化の盛運を見た江戸時代の幕府の職制が、年寄(大老・老中)・若年寄(年寄見習の意)、大目附・目附・京都所司代(所司は足利時代にあったが当時はない)等の役名であったのでも知られる。都市の形式も整齊であったのは、平城・平安二京の如く、唐制模倣の時代のみで、その他は自然の発達に任せたため、街衢がいく錯雑さくざつを免れなかった。仏教でも堂塔の配置の形式的なのは南部六宗や禅宗等に限られ、加持供養の儀式の厳なのも天台・真言や南部六宗のみで、共に外来宗派であって、我国で起った新宗派は、信心を主として形式を重んぜず、浄土真宗の如きは、仏教の形式の最根本的な僧俗の区別にさえ拘泥せず、僧侶も肉食妻帯の在家生活である程であった。

理論を重んぜず、実践を主とし、実行に長じ、理論に短であったことは、最も真剣な実行たる戦争には外国に対し百戦百勝であったに反し、理論の行使を主とする外交に於ては、屡々失敗を繰り返していることからも察せられる。又支那文化の同化が、芸術は藤原時代に、宗教は鎌倉時代に完成したに拘らず、学術は江戸時代を待たねばならなかったのも、学術が最も理論的であるためであり、学術の中で国史が最早く発達したのも、学術中、最非理論的で、具体的なためであった。

血族性 連綿性

自然性の社会結合に現れたものが血族性である。有ゆる人間の結合中、全く人為の選択を許さぬ最も自然な結合は血族であって、その核心を成すものは親子の結合である。我国ではこの親子関係を中心として家を成し(今日の西洋の家は夫婦を中心とする)、同族が集って氏を成し、総ての氏が合して国を成した。家に於ける親子は、氏に於ては氏上と氏人であり、国に於ては皇室と国民であった。氏上が氏人中の宗家で、氏の中心であった如く、皇室は国民の総宗家であらせられ、国民の中心で在しました。氏は大化改新以後、その性質に変化があったが、同族の団結は後まで続き、家が親子の結合を中心とすることは、皇室が国家の大中心であらせられることと共に、万古不易である。

人為の選択を許さぬ親子関係は永久不変である。変化し易い利害や権力や好悪によって結ばれず、自然の情愛を紐帯とすることも、親子関係を不変ならしむる所以である。親子を中心とする我国の家は、遠く祖先から無限に遙かなる子孫までを包括する久遠の生命を有する。かかる家の拡大である我国が永遠に生々発展すべきは当然であり、皇室の万世一系に在しまし、君民関係の万古不易であるのは言うまでもない。臣民の家には盛衰も多いが、古代から連綿と栄えている家も少なくない。中央に於ける藤原氏はその最著しい例であるが、地方にも神官の家にはこれに比すべきものが珍しくない。熱田神宮の千秋氏、出雲大社の千家・北島両氏、阿蘇神官の阿蘇氏等その著しいものである。外来文化もやがて同化により永遠性を賦興されることに文化の連綿性が見られる。原始信仰たる神祇の崇拝が今日に現存するのみならず、外来の仏教も、他国では或は廃滅し、或は形骸を存するに過ぎぬ現在まで、依然として国民多数の信仰を得ているのは、その好例である。この結果は文化の遺品の伝存を万国に冠たらしめて居る。

全体性 親和性

親が我を忘れて子を愛し、子が身を捧げて親に仕えるは、やがて個を捨てて全である家へ奉仕することである。されば家の拡大たる国に対しては、臣民は一身一家の個を捧げて、全たる君国に尽すに至るは当然である。

個を去って全に就く心は、個の間を親和せしむるは当然である。国家として他に比し刑が軽く、人民の間に古来階級闘争のなかったのもそのためで、都のあった国であるヤマトに大和の文字を用いたのもこれに由る。個の間の親和性は外に対しても外民族に親しみ、外来文化を受容し、自然に順応するに至らしめるが、これ素直な心に偏見の宿らぬによる。外民族を卑めず、悪まず、歓び迎えたことは、古代に於ける帰化人の優遇にも見られるが、戦争に際しても、常に敵軍戦死者の菩提を弔い、捕虜を厚遇したことは、外国に例を見ない所である。北条時宗が元寇の際、敵味方の戦死溺没者のため千体の地蔵を造って供養し、豊臣秀吉が朝鮮陣の敵の戦死者のため大供養を行い、所謂耳塚を築いた等はその著しい例である。

順応性 受容性 同化性

自然を敵視せず、これに順応せんとし、自然との融合を理想としたことは、芭蕉の「造化に随い、造化に帰れ」の言葉にても明であるが、我国の住宅・衣服は最自然に開放されて居り、和食は最自然の味を活かすを主として居り、我国民程古くから自然美を愛する国民はない。

外来文化に対しても、古来熱心にその受容に努め、時にはその度が過ぎて卑屈に見えることさえあるが、これによって早く外来文化を十分に採用することが出来たのである。奈良時代前後に於ける随唐文化の移入と明治以後に於ける西洋文化の採取は、その最著しいもので、その結果は共にある方面ではその本国以上にまでこれを発展せしめ得たのである。

受容は同化の前提であって、受容された文化はやがてその実際性・実践性により本来の形式や理論に拘泥することなく、我国風に同化されて、我文化の要素となるのである。支那文化は法則や芸術は藤原時代までに、仏教は鎌倉時代までに、学術は江戸時代前期中に全く同化を見たが、漢字の同化の如きは奈良時代から著しく現れて居る。象形文字たる漢字を音符に使い、やがてそれが片仮名、平仮名を生んだのも根本的の同化であるが、その使用に於いても大和をヤマトと読むは何等文字と関係なく、上毛野かみつけぬの毛の字を略した上野を音では野を略し、近淡江ちかつおうみの淡を略した近江を音では江を略して読む等、自由無碍な用方をして居るのである。

支那西洋との比較 肇国

かかる我国民性は、支那人が形式を重んじて美名を喜び、言説を主として実行を軽んじ、個人を主として国家意識弱く、外民族を夷狄と卑しめて、外来文化の受容を好まず、西洋人が理論を主として実体から遊離するに至らしめ、個人の自由、個人の幸福を主とし、白人以外を賤視し、自然の征服を文化と考え、東洋文化を軽視して来たのと、著しい相違のあることを認むべきである。

かくの如き大和民族がこの大八州の地に住したのが石器時代であることは考古学的遺物から明な事実である。されば我国の成立は国土が生まれ、その国の主として天照大神の現れさせられた時に淵源して居り、皇孫瓊々杵命ににぎのみことの降臨以降は仮令未だまつろわぬ地方があったにしても、明にこの国土を統治させられていたのである。神武天皇が橿原宮かしはらのみやに即位し給うた時を以て紀元とするは、この以前は遼遠で年数も確に知れないためであると共に、この時より畿内に都が定まり、大八洲の大部分も皇化に浴し、国家の体制も整ったためであり、天皇を御肇国天皇はつくにしらすみめらみかどと申し奉るのもそのためである。

我紀元年数は日本書紀によったものであるが、書紀の年紀の疑わしいことは、新井白石や本居宣長以来学者の論じている所であるが、勅撰の歴史によりて公に定められた紀元は学者の意見によってこれを改むべき必要のないことは言うまでもないことで、西洋の基督降誕紀元も歴史家の研究では史実に違うけれども、何人もこれを改めんとしないのでも明である。

国体の本義 皇運の無窮

我国体は我国民性の基礎の上に起ち、肇国以来連綿として変わることなく、万古不易であって、かくの如きは全く世界に例を見ない所である。この国体はこれを要約すれば、皇運の無窮、天皇の神聖及び忠孝の一本を特質とする。皇運の無窮は我連綿性の大本であって、不変の親子関係の拡大によって君臣関係が出来ているからである。

神代の物語として伝えられる所によれば、この国土人民は皇室のご先祖たる天照大神と同じく伊弉諾いざなぎ伊弉冉いざなみ二尊から生まれたとして居るので、これが所謂国生みである。二尊は磤馭盧おのころ島に降られ、八尋殿やひろどのに於てミトノマグハヒの結果、淡路島・伊予二名島(四国)・筑紫島(九州)・壱岐・対馬・隠岐・佐渡及び大倭豊秋津島(本州)等の大八州を生ませられ、更に山野・河海・草木・火風等の神を生ませられ、最後に天下の主を生もうとて、天照大神・月読尊及び素戔嗚尊の三貴子みばしらのうづみこを生ませられたが、天照大神が最も勝れさせられ、月読尊がこれについて勝れさせられたから、高天原へ送られ、素戔嗚尊は暴々しくて、山野を泣枯らし、河海を泣乾す程であったから、根の国へ遣わされたという。

天照大神と月読尊は天に輝く日月を形どったものだから、高天原に上られるが、二尊が態々この土に降って御生みになったのは、皇室が建国以前から古く民族の中にあって、決して、我民族以外から来られたのでないためである。

かく我国民は皇室の御先祖と同じ二尊から生まれたのであるから、永久に離るべからざる関係があり、皇祖天照大神はその二尊からこの国の主と定められた神であり、皇室はその天日嗣あまつひつぎであるから、国民の大君であると共に総宗家であり、君民の関係は親子関係の拡大となり、親子関係と同じく万古不易の永遠性を有する訳である。皇室の政治上に於ける御勢力は時に消長を免れなかったが、皇室が我国を統治せられることには何等変りはなく、戦国時代の皇室御式微の際と雖も、皇室に於ても常に国民の安寧に宸襟を悩まさせられ、国民亦皇室のため、常に金品を献じて或は皇居を修理し、或は大禮の資に供し奉ったのである。かく君民関係が万古不易で、皇運が天壌と共に無窮であることは、やがて天皇の神聖なる所以である。

天皇の神聖

易姓改革の国では機能の庶民も今日は天子となり得ると共に、今日の天子も明日は匹夫に堕するかも知れぬから、天子は神聖ではあり得ないが、我国の天皇は天日嗣として万世一系の皇統を継がせられているから、力を以て争う能わず、智を以て競う能わざる生きた神と考えられて来たのである。奈良時代の事の詔には明神御宇日本天皇あらみかみとあめのしたしらすやまとのすめらと仰せられ、万葉集の歌には「天皇の神の尊とか「大君は神にしませば」とか屡々詠ぜられて居り、後世「拝むと目が潰れる」と考えられたのもそのためである。

忠孝の一本

而して親子関係の拡大が君民関係を成したから、自然の情としては両者共通して居り、玆に忠孝の一本が存するのである。決して祖先の忠を尽くした皇室へ忠を尽すことが、やがて祖先に対する孝ともなるというのみではない。されば我国の忠は親に対する孝と同じく、自然であり絶対であって、支那の忠が禄を受けた臣のみに要求せられる相対的のものであるとは、全くその性質を異にして居る。されば我皇室は、外国に於ける如き、武力によって征服したか、便利のため国民に擁立せられた主権者とは、類を絶することを牢記すべきである。

[底本]
解説日本文化史 改訂増補 栗田元次 著(昭和15・明治図書)
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1184515 (参照 2024-03-14)

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