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春嶽公の懐刀
幕末の賢諸侯といわれた大名連を挙げると
徳川齊昭(水戸烈公)
松平春嶽(越前候)
島津斉彬(薩摩候)
山内容堂(土佐候)
毛利敬親(長州候)
鍋島閑叟(佐賀候)
伊達宗城(宇和島候)
先ず以って、こういうところだ。このへんの連中になると、殿様とはいいながら、智慧もあれば力もあり、相当の働きをしたものだが「持つべきものは良臣」だ。良い家来を持ったものは、矢張りそれだけの働きをしている。
浅野内匠頭の、大石良雄という良臣を持たなかったならば、あれほどの名声を天下に馳せはしなかったろう。良雄があって四十七士があり、元禄の復仇があり、そこで内匠頭が萬世に伝わるというものである。
維新の諸大名にしたところが矢張り家来に良いのを持っていたのとでは、大分働きの上に上下の差が出来ている。
水戸烈公に藤田東湖、戸田蓬軒があり、山内容堂に吉田元吉、後藤象二郎があり、それぞれに見事な活動をしているように、松平春嶽にも橋本左内、中根雪江なんぞがあって、春嶽の名を重からしめている。流石の水戸烈公も、藤田、戸田の両雄が両側にいなくなって、とんと気勢があがらなかったといわれているが、春嶽も矢張り、橋本が斬られてから後は、大分ドギマギしていることが多い。
そこは争われぬもので、近いところで大江卓が後藤象二郎の懐ろ刀でいる間は、随分切れ味のよい仕事をしたが、卓が離れて井上角五郎なんぞの時代になると、流石の東洋大豪傑も鈍ってしまったから……。
橋本は例の安政の大獄で井伊から殺された一人だから、安政六年、松蔭なんぞと前後して刑死したのだが、橋本の後を亨けて、春嶽の相談相手となったのは中根雪江だった。
中根という人は真面目なそして篤学の人で、先ず純良の臣ではあったが、それだけに機略や卓識やというようなものには缺けておった。
といって橋本が策略家の士であるかというと、決してそうではない。しかし大局を見て時勢を達観し、春嶽を擁して中央の政局に參與するという、目と腕と心との働きは、却々図抜けたものがあった。
その識見の勝れていたということは、彼れが安政の頃に、既に日露同盟論を主張していた事実があるのでも大がいは察しがつこう。
左内の日露同盟論というのに就いては又た節を改めて紹介するであろうが、何しろアメリカのペルリがやって来て、黒船云々で騒ぎ廻っている時代に、ロシアと攻守同盟を結んで日本の大陸的地歩を固めておこうと考えたなぞは、何としても図抜けたものだ。
それでいて安政六年、左内が死んだ時が幾歳かというと、驚くなかれ、タッタ二十六歳だった。
二十六歳といえば、今頃の青年はヤット大学を出るか出ないかの、鼻タレ小僧ではないか……。
15歳で「啓発録」
東湖にしても、象山にしてもまた松蔭にしても、あれだけ一代に名を成すくらいの人だから、少年時代からなかなか頴悟の資であったことは申すまでもない。
しかし同じ頴悟の中でも、またいろいろであるが、その中でも子供の子供らしくて神童といわれるのと、子供であって大人らしく、或いは大人も及ばぬ人物といわれる人がある。橋本左内がまず、この大人らしい人物の方だ。
阪田の金時というのがある。絵にも書いてあるが、人形よりもよく作られている。真っ赤な身体をして、ブリブリ太った四肢を充分に伸ばして、両脚は巖をも踏み碎くような力で大地をふまえている。両手は高く中天にささげて、何百貫目もあろうという大きな斧を振りあげているのだ。
かように改まって拙者が御説明申し上げなくとも、諸君先刻御承知だが、あの金時が子供の子供らしい強さだ。力だけなら大人の十人や二十人、乃至は五十人百人かかって来てもビクともしない程のものをもっているのだ。
ところがその外のことは、全くの子供である。菱形の胸かけをかけて、その胸掛けの下から、唐辛子のようなのがのぞいているなんぞは、いくら大力無双でも、
「坊チャン、強いナ……」
とあやしたいくらいのものだ……。
ところが左内なんぞとくるというと、生れながらにして臍下三寸、鬱蒼たる大森林をなしているような物凄さだ。
左内が十五歳の時に書いたと言われている「啓発録」という文章がある。
その文章を読んだくらいのものなら、とてもこれが十五や十六の少年の書いたものとは思われないのに、愕ろかざるを得ない。
いろんな文字を知っているとか、故事来歴に通じているとか、論語孟子を暗礁しているとかいう、いわゆる神童というものは、大がい物覚えがよいというに止まっている。だから大したことでもない。
しかし左内の「啓発録」なんぞと来ると、もうすっかり大家の文章である。文字の使い方から内容から、意見の立て方から、物覚えのよいというくらいの子供ではとても出来ないことだ。
この「啓発録」については、いろいろいい度いこともあるがその中で一例をとると「稚心を去る」という一項目がある。
この「稚心を去る」というのは、どんなことをいったものかというと、
「人間には幼な心というものがある。直ぐに者に愕ろいたり、珍しがったり、恐れたり泣いたり笑ったりする。人間の修養というものは、先ずこの稚ならしい心からとり去ってかからなければ、とても大成は出来ない」
と先ず、こういう意味のことを書いているのだ。
自分がやっと十五や十六になった子供ではないか。その小僧が「稚心を去る」なんぞは、恐れ入ったものである。
切傷をやけどに
橋本の家は、越前福井藩の医家で、代々医業を以って家業としていたものだ。明治になって、宮内省に奉仕していて、剛直の名があった橋本綱常という皇漢医が、左内の弟だ。
代々医家のことだから、左内もお医者さんになる考えであったところが、人間を治すお医者さんじゃなくて、国家の病いを癒す国手になってしまったのである。どちらにしても、あまりカケ離れた仕事ではない。
これは左内がまだずっと幼い頃の話だが、左内が近所の同輩と喧嘩をして、相手の子供を脇差で斬りつけたことがあったそうだ。
左内は元来温良な人で、人と争うなぞということのない人だが、相手がよほど理屈のわからぬことを、根強くかかってきたものと見えて、流石の左内が脇差を抜いたものと見えるのだ。
子供のことではあるが、相手を斬って怪我をさしたのだから事が少し面倒になって来た。
その相手の子の親か何かが出てきて、
「元の通りにしてくれ」
とか何とかねじ込んで来たものらしい。
すると左内は平気なもので、
「それなら俺が治してやるから家へ来い」
という。成るほど左内の家はお医者さまだ。左内も医者の子だ。切り傷ぐらいは治す道をしっているのかも知れぬ。知らなくたって大先生が治してくれるに違いない。とか思ったかして、相手の子供が左内に伴れられてやって来たものだ。
左内は親爺さんに尻を持って行って、何とかして貰うかと思うとそうではない。
何と思ったか、火鉢の中にカンカン火がおこっているその中に火箸を突き込んだ。
何をするのかと思っていると、その焼火箸の真赤になるのを見て、それで子供の切り傷のところにさしつけて、ヂリヂリと焼きにかかったのである。
いやこれを見た相棒が驚いたの驚かないの、刀創でもって大がい痛い思いをしちえるのに、この上ヤケドにされては溜まったものではない。
「左内、何をする!」
といって飛びのく奴を、しっかり手頸を押えて左内がいうには、
「お前が生意気に、此の傷をどうしてくれる。元の通りに治してくれというから、お望み通り治してやるのだ」
といって、猶も焼火箸をツキつける。子供は厄気になって、
「この上焼火箸で焼けどをさせられて溜まるものか、左内ソコ放せ!」
左内はニコニコ笑いながら、
「そんなら今度だけは許してやる。これから生意気な口の効き方をするナ」
と戒めて放してやったということだ。
左内曰く、
「俺は子供だからまだ医者のことは知らぬが、ただヤケドを治すことだけは覚えて知っている。そこで、切り傷では治せないから、それを一度ヤケドにして、それからヤケドとして治してやるのだ」
といったというが、素晴らしいものである。蛇は寸にして人を呑むの気あり、というが、恐ろしい腕前ではないか。
糸を切られた凧
左内は子供らしい遊びというものは、殆どしなかったという話だ。
松蔭なんぞも同じことで、これは勉強に忙しかったので、遊びなんていうことにはトント御用がなかったのだ。
松蔭の妹千代子刀自の思いでばなしの中にも、
「寅二郎が子どもの時に、皆様のように、いろんなことをして遊んでいた姿というものを見たことがござんせぬ」
というのが、何よりの證據だ。
「遊ぶは遊んでも、勉強した姿を見たことがない」
という今どきの子供にくらべると、雲と泥との距たりだ。
左内なんぞにしても、矢張り同じことだ。それでも子供には相違ないから、時には紙鳶をあげることがあったと見えて、この紙鳶あげに面白い話がある。
この凧というものは、何となく人生の希望というようなものを現している。糸一本の引き方で、大空に高く飛揚している凧の姿は、何といっても勇ましいものだ……。
左内はその凧が遥かに去来する雲の間に、高く低く、舞い上がったり、舞い下がったりしているのを見て、他日青雲の志を立てつつあったのかも知れぬ。
サテ或る日のこと、少年左内が、例の通り野原に出て、春風に凧をあげていると、その近所に悪太郎達が、同じ様に糸を繰っておった。
よくあることで、子供同士のことだから、自分の凧の威力を示すために、よく他人の凧の糸にワザと自分の糸をからませて、それを強く引く、すると相手の糸が切れて、フーと遠方の空へ放れて行く。それを見て、
「ヤーイ、お前の凧が負けたィ……」
と凱歌をあげるのだ。
ところで左内の側にいた餓鬼大将が、この手をやってきたのだ。勢い込んで糸をたぐり出して、左内の凧にからみつかせたのである。
すると左内は烈火のように怒るかと思いの外、ト見るや否や直ぐに腰から脇差を抜いて、自分の凧の糸を、手元からプッツリと切り離して、そのまま後も見ずに、悠然として立ち帰ったものだ。
糸を切られた凧は、ご主人の左内とは反対の空遠く、フワリフワリと放れて行ってしまった。餓鬼大将は、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、ポカンと大口を開いたまま、飽気にとられてしまったという話だ。
この辺で左内の人と為りが、スッカリ解かってしまっている、左内は凧をあげて遊んでいるので、何も喧嘩に来ているのではない。また考えてみれば、顔を真赤にして怒鳴り合うほどのことでもないのだ。
だから左内は呑気なもので意地悪の悪太郎が、糸をからまして来ると、自分の糸を切って、さっさと帰ってしまったのである。
併し何だ、これが十七八にもなってのことならば、そんな分別もでようが、五ツか六ツの子供としては、何としても大人びたものである。
「東湖の後東湖あり」
左内は橋本の本名、景岳はその雅号だ。景岳というのは、宋に岳飛を景仰するという意味で、左内が十二歳の時に選んだものだそうである。
岳飛は今さら説明するまでもなく、稀代の兵家でもあり、治国の雄才でもあり、殊に忠肝義胆、尽忠報国の大理想を以って一生を終始した英傑である。
橋本がその岳飛の人と爲りを慕うて、景岳と号したというところに、現に左内の人と爲りが察せられるが、それが十二歳の子供の時だというから、一層愕ろくの外はない。
橋本が江戸に出たのは二十一歳の時で、たぶん安政元年であったと思う。そしてそのころ天下に雷名を走せていた、藤田東湖だの、佐久間象山だの、藤森弘庵だの、林鶴梁だの、吉野金陵だの、羽倉用九だの、安井息軒だのというような大家先生の間に往来して、夙にその才識を認められておったのだ。
東湖なんぞはひどく景岳に惚れ込んでいたものと見えて、景岳の登用を勧めたのは、東湖だという話があるくらいである。
何でも福井藩の鈴木主税が、ある一日東湖に逢って、当代人物の少なきを嘆じた時に、
「何も左ようにご嘆息にも及ぶまい。御藩には橋本左内という俊才がござるではないか。左内はまだ少年ではござるが、なかなかどうして、学問といい、才識といい、当代稀に見るの駿足でござるぞよ。なぜ御藩ではあの人物を塵溜に捨ててござるじゃナァ……」
といわれたので、鈴木が初めて左内の人傑であることを知り、それから中根雪江に話し、兩人して春嶽公に申し上げ、それでやっと左内が登用されるようになったという。
改革をやった大立物で、後には鈴木、中根、橋本の三人が春嶽補佐の三人傑と稱せられたのだが、東湖から折紙をつけられて、ヤッと左内の人物器量を知ったくらいだから、灯台下暗しというわけだ。
左内は二十歳前に最早や藩校明道館の学監としておったという。この明道館というのは例の横井小楠が越前に聘せられた時に、その意見によって出来た学校だ。その藩校の学監をしていたのが青年左内であったのを見れば、彼れがどのくらい夙成の人物であったかがわかるだろう。
左内に対して大いに抜擢の命があったのが安政三年だというから彼れが二十三歳の時だ。
当時左内がこの抜擢を辞退するの書があるが、その文書なぞを読むと、とても老成なのに驚くの外はない。
水戸の武田耕雲斎などは、左内を評して、
「東湖の後東湖あり」
と左内を絶稱しているのでも、略々左内の人物を想像することができよう。
しかし東湖と景岳とは、随分人物の型が違う。東湖はどことなく「お山の大将」然たるところがあるが、左内はどこまでも重厚だ。
尤も弁舌の鋭かったことは東湖、景岳、共に似たところがあったようである。
西郷との会見
時の宰相阿部正弘、これも却々若輩のくせに老大人の風のあった人で、井伊大老などよりはズット政治的才能の豊かな人であったが、この人の智嚢に川路聖謨という人がある。
川路は幕末における幕府側の人材としては傑出していた人物だが、この川路が左内にはヒドく參ってしまった。ある時、川路が左内を評していうには、
「一度橋本左内という男が尋ねてきて話をしたが、イヤどうも、その弁舌の鋭いこと鋭いこと、刀で切られぬだけの話で、イヤ心は傷だらけとなってござるよ。あの時、左内に問いつめられた時ほど、窮したことはござらぬよ」
と嘆息したそうである。
川路といえば海外の事情にも通じ、時務を知るの識見もあり、且つ老練の人が、これほど嘆息するのだから、余程の切れ味であったに相違ない。
左内は胡蝶も袖にたわむれんばかりの美少年で、その容貌は婦人の如しといわれたものがから、一寸見たところでは、何だかニキビ青年のように思われた。
西郷隆盛なんぞも、実は左内の優しい顔に、一パイ食わされた一人だ。
西郷が初めて左内と逢ったのは安政二年の十二月二十七日のことで、水戸藩士の原田八兵衛という人の邸であった。しかしこの時は、ただお互いに顔を見会わせて挨拶をしたに過ぎなかったが、日ならずして、今度は左内から進んで薩摩屋敷に吉之助を訪うて来たのだ。
ちょうどその時、西郷は多くの藩士たちに庭で相撲をとらせて、自分もその仲間に入っておった。すると、そこへ通されたのが先日の橋本左内だ。
色の白い女にしても見まほしい優男であるから、西郷も少々心に軽んじたものと見える。西郷は橋本を見るや、
「天下国家のことは、オイドンは知らんのじゃ。先ずここで相撲でもとらっしゃれ」
と薩摩鍛えの荒武者どもを相手にして、この男の度胸をためしてやろうという肚でもあったろう。
左内はそんなことには耳にも掛けず、滔々として天下の大勢を陳べ、時務策を論じたてたのだ。
それを聞くともなしに聞いていた西郷が驚いた。その弁舌の爽やかなのは申すまでもないが、そのいうことが、なかなか素人じゃない。山出しの西郷なんぞが耳にもしないような、幕府大奥の秘密などをチャンと知っておって、これが対策を述べるのであるから巨大の薩摩ッポウの眼の玉を丸くしたのも無理はない。
景岳の論調は頗る激越、説くところは剴切、精気人を襲うものがあったので、西郷は一も二もなく降参してしまった。
西郷はヒドク左内を冷遇したことを恥じて、その翌日にはチャンと形を改め、向島の越前邸へ出かけて行って、左内に前日の失礼を謝したそうである。
西郷はいつも人に向って、
「先輩にては東湖、同僚にては景岳」
といっておったそうだ。
一橋擁立運動
黒船問題が起って、国内俄に開鎖の論が八釜しくなった時には、松平春嶽は鎖国論者であった。
水戸烈公といい相棒で、いつも烈公、春嶽と袂を連ねて歩いておったところから、烈公の猛烈な鎖国論にカブレたものと見える。
とこが橋本は幕下に参劃するようになってからは、その鎖国論は井然たる條理がついて来たようだ。
橋本は烈公のような、盲滅法な鎖国論者でもなければ、攘夷論者でもない。固より外国の威に恐れてハラハラしているような開国論ではないが、外国の文物制度の進んでいることもチャンと知っており、いずれは是等と交わりを結んで貿易をはじめなければならぬぐらいのことは、先刻承知の左内だから同じく幕府の軟弱を攻撃するにしても、チャンと眼が開いているのだ。春嶽も左内が来てからヤットのことで一人前になったような形がある。
嘉永六年の六月二十二日に、とにかくペルリが帰ったので幕府の役人連はヤレヤレと先ず重荷を下ろしたような気がしたのだが、それから十日ばかり経って後に将軍家慶が死んでしまった。
その後を継いだのが徳川家定で、これが十三代の将軍様だ。ところがこの家定というのは子供を有することの出来ない身体といわれていた。
子供の出来ない身体というのはおかしな身体だが、何しろ宝の持ち腐れか、御用に相立たぬ武具の所有者であったと見える。その上に少々薄馬鹿で白痴とまでは行かなくても、何やらお足り遊ばされぬ人物であったらしい。
こういうのを将軍様にするところに、幕関連の肚の底が見える訳だが、何は兎もあれ、子供が出来ないとすると、その世嗣を極めておく必要がある。これが当時の大問題となった将軍継嗣問題だ。
この時に春嶽や烈公の斉彬が、時の大老阿部正弘と内外応じて烈公の子一橋慶喜をお世嗣に立てようと奔走したのだが、この発案者は何でも左内であるという噂である。左内が春嶽を動かし、春嶽が第一の主唱者となっているところを見ると、この説も或る程度まで当たっていると思う。
一橋擁立に反対したのは、第一は大奥で、第二は紀州家で、第三は井伊であった。なぜ一橋を嫌ったかというと、第一は八釜しやの烈公の子だというのが胸につかえているのだ。中には烈公が将軍家を覬覦するのだというものさえあったくらいだ。
第二には一橋が聡明な人物であるというのが面白くない。成るべく暗愚でなければ、大奥の自由が利かぬ。まァそういったところから一橋世嗣の反対者が少なからずあったのだ。
左内が春嶽を使い、西郷が斉彬の下働きになって大いに奔走したのはこの時のことだ。
そこへ傲然として出てきたのが、彼の井伊直弼だ。彼の鉄石心膓を以って、一挙にして一橋を排斥し、天下の志士を叩き斬ってしまったのだ。
跡が持ち切れますか
兎に角井伊も人物だ。水戸烈公、松平春嶽、島津斉彬といえば、当時天下に鳴り響いた大侯伯だ。
それらの大侯伯が轡をならべて一橋擁立を叫んでいるのを、暗打ちにズバリとやっつけてしまって、グウの音も出させなかったのだ。
中村吉蔵の「井伊大老の死」なんかに出て来る井伊直弼は、何だか神経衰弱性にかかっている現代青年のような気がするが、なかなか以って、そんなお優しい先生じゃない。
「痩浪人に物はいわせぬ」
という気構えで、ガヤガヤ騒いている天下の志士を、一網打尽し、裏畑の大根でも切るように叩き斬ってしまった勇気というものは、並大抵のものじゃあるまい。
安政五年戊午の大獄という、その言葉を聞いただけでもゾッとする。安政二年の大地震よりはこの方が、より強い震動を日本に與えている。
死んだ人間の数からいったらとても大地震には及ばないが、人心に與えたショックというものは、全く比較にならぬ。
梅田雲浜だの、吉田松陰だの、橋本左内だの、皆んな大獄の犠牲者となったのだ。薩の西郷吉之助が、天上天下に身の置きどころがなくなって、とうとう薩海に月照と相抱いて投じたのも、この時のことだ。
橋本の身辺が危うくなった時に、越前藩でもいろいろ相談をしたものだ。それは橋本ほどの人物をムザムザ幕府の手に渡すのは惜しいものだから、何とかして助けたいというのである。
成るほど今日と違って封建政治の時代だから、たとい中央政府の命令があっても、藩主が手打にしたとか何とかいえば、ある程度までは誤魔化せたものである。
そこで鈴木や中根なんぞが相談をして、この際橋本を外国に逃がしてしまおう。そうすれば橋本の見学にもなるし、人物を失わなくても済むからということに相談がまとまったものだ。
そこで中根雪江、石原甚十郎などの主だった連中が直接左内を訪うて、その意見を尋ねてみたのだ。
「将来ある足下だ。ここは一つ逃げてくれ」
と頼むと、左内は、急に容を正して、
「さようでござる。拙者逃げ出してもよろしいが、拙者去りたる後、跡が持ち切れますか」
といわれたので、流石の中根等も一言の答えも出来なかったそうだ。
「跡が持ち切れるか」
とはよくいったものだ。これが当年二十五歳の一青年だ。この青年がいるといないとによって、一藩の運命が決しようというのだから、大したものだ。
左内の気位の高いことも思われるが、今日からいえば、逃げて貰った方が、どのくらい国家の役に立ったか知れぬ。あの時左内が逃げて米国から、欧洲へかけて、巡って帰って来る分には、時勢も一変して、いよいよい王政復古ともなれば、左内の力は随分伸びていたに相違ない。といって見たところで昔が今になる譯のものではない。
藩主春嶽の大志を述ぶ
左内がいよいよ江戸に檻送されて、役人の取り調べを受くると、彼れは最初どこまでも知らん顔をしておったのだ。
元来天下国家を相手にして、仕事をしていた左内だから、お奉行なんぞの小役人の歯に立つ男じゃない。
左内がてんで相手にしなかったのは心中大いに決するところがあったからだ。固より小役人を眼中に置かなんだからでもあるが……。
井伊のクーデタは安政五年にはじまって翌六年に及んでいるが、だんだん時日が経過するに随って、橋本の心情に一つの変化が生じてきたのである。
それは橋本が知らん顔をしているのはよいが、どうやらその爲めに藩主春嶽公にも、累を及ぼしそうな形勢となった。それを烱眼なる橋本が、早くも見てとったのだ。
こういう風になると左内たるものも考えざるを得ない。どこまでも実をいうまいと決心はしたのであるが、そうすると禍を藩公に及ぼすことになる。これでは臣節も完うされなければ、武士たるの面目も相立たぬ次第となる。
と、かように考えたので左内が決然として前意を翻して、事の真相をさらけ出そうと考えたのだ。
一日役人が例の通り左内を牢から出して白洲に引き立てると、左内は平生とはまるで打って変わった態度で、これまでの秘密を打ちあけるので、役人達も驚いてしまった。
「拙者曾て国事に奔走いたしたる次第は、実はかくかくかくの事情でござる。これは私一個の考えでもなければ、又た他人が教唆されてやったことでもござらぬ。藩主春嶽侯の平生の勤王心より、臣に命じて行わしめられた事で、春嶽侯の大志はかくかくでござる」
ここで春嶽侯を持ち出したのは、何だか罪を主人に帰するようにも見え、余計のことをいうようにも聞えぬでもないが、ここが左内の大人物たるところで、他人の容易に模し難いところなのだ。
自分の命なんぞは、固より捨ててしまっているから、どうなっても更らにお構いはないが自分たちがつまらぬ私心の爲に事を企てたとあっては、却って汚名を藩主にまで及ぼし、疑いを千秋に遺すことになる。これでは藩主に対して寔に申し訳がないのだ。
そこで左内が堂々として井伊の非点を論難し、幕府の失政を通責し、藩主春嶽侯の大義心を披瀝して、我々はその下に立って微力を尽くしたのであると開陳したのだ。
ここまでの考えになると、当時志士も多かったが、一人左内に及ぶものはない。
固よりこれで立派に有罪ときまり、安政六年の十月七日に小塚原で刑死したのだが、いうだけのことをいっておいたから、悲憤もしなければ、慷慨もしない。立派な死に方をしたものだ。
時に二十六歳、あたら人物をムザムザと殺してしまったのだ。
容貌夫人の如し
安政六年には、獄中にあった志士は、相次いで刑に処せられた者が六十餘人の多きに上っているが、その主なる者を挙ぐると、
梅田雲浜(九月十四日)
頼三樹三郎(十月七日)
橋本左内(十月七日)
吉田松陰(十月二十七日)
なぞだ。
幕府の有司で、その人ありと知られた水野筑後守は曾て、こういうことをいったそうだ。
「井伊が橋本一人を殺した一事だけで、最早や徳川幕府を滅ぼすに足るものだ」
この標語によって見ても、左内がどのくらい天下に重んぜられていたかがわかる。
お互いの志士同志の間で尊敬せらるるのならば、あり勝ちの人物だが、幕府にまで重視せられる人物となると、その位が一段と高い。
橋本が刑せられる時の絶命詩に曰く、
二十六年如夢過。
顧思平昔感滋多。
天祥大節嘗心折。
土室猶吟正氣歌。
その志のほどが忍ばれて、後世志士をして奮起せしむるに足るものがある。
戊午病中の作の中には、
伹知懐主。
甘委命於鴻毛。
無復偸生。
期裏尸於馬革。
とっくの昔にチャント覚悟はきまっているのだから、物に当たって動じない譯だ。
福井にある橋本景岳の碑に、碑文を選んだのは、その主松平春嶽侯だが、その文中に次の文句が発見される。元文は漢文で書いてあるが、ここには読みやすいように、仮名まじりに直してご紹介する。
君、京師に入りて周旋し、事殆ど成る。而うして音恭公薨ず。幕老井伊直弼、紀侯を樹立す。是に於て越侯及び尾水土の諸侯、皆な獲て幕府に譴せらる。是の歳十月、幕吏君を捕へて獄に下し、明年十月刑せらる。是時列藩の志士前後して逮捕せられ、その訊鞠に遭ふや、努めて罪を己れに引き、累をその主に及ぼすを欲せざりき。君、獨り抗然として曰く、此れ國事にして私事にあらず、臣請ふ明らかに之れを言はん。儲を建つるに長賢を以ってするは、國家を利するなり。外事に勅裁を乞ふは天朝を重んずるなり。吾が主実に臣に命じ、臣実に之れを周旋す。敢へて他志あるにあらざるなり」
春嶽侯も左内には、ヒドク惚れ込んでおったと見えて、左内を失ってからは、全く火の消えたようだった。
橋本は元来夫人と間違えられるような人であっただけに、やはり、蒲柳の質であったようである。
天下の豪傑俺れ一人といったような粗製濫造の豪傑ではないから、一寸見たところ、何だか気勢があがらぬ。しかし肚の中は泰山一事に崩壊してきても、ビクともしないものを持っておった。
兎角大きな聲をして意張る奴に碌な男はいない。死ぬ死ぬという奴に、死んだためしがないように、真の大勇者は、いつでも水を打ったように静かなものだ。また心が静かでなければ底力は出てくるものではない。
雑賀鹿野 著『風雲と人物』,新英社,昭和11.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1031534/1/71
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